• 今日はようやくすっきり晴れたので洗濯物を取り込み、洗濯機を回して洗濯物を干し、写真を撮りに出かける。夜になって帰ってきて洗濯物を取り込む。夜中にディオティマ四重奏団の新ウィーン楽派ボックスを引っ張り出してきて、シェーンベルクの《弦楽四重奏曲第1番》を聴いている。とても真面目な音楽なのだけれど、ところどころ急にぐにゃりと奇妙に歪んだりしていて、面白い。終わったので、そのまま蒲団に入って眠る。

  • 夜、ナンバさんとシノギさんとジュスティーヌ・トリエの『落下の解剖学』をめぐって話す。ナンバさんの「50 Centの《P.I.M.P.》とショパンの《24の前奏曲》の「第4番」はどちらも同じ落下する音型で組み立てられており、あの夫も息子も、まるで違う音楽を選んでいるようで、どのみち、母に引きずられて落ちてゆくのだ」という見立てには瞠目。さすが。しかし、このマチズモ(女性だから母親だからそれから逃れられるわけではない)と独白と告白の支配するこの映画が、よい映画であるとは到底私には思えない。話を終えてTwitterを見ると、最近はすっかり私も何かを聴くときに選ぶ盤ではなくなってしまったが、マウリツィオ・ポリーニも亡くなったそうだ。合掌。

  • ジュスティーヌ・トリエの『ソルフェリーノの戦い』を見る。『愛欲のセラピー』からヴィルジニー・エフィラの良さを抜いてしまうと、これがまだいちばんいい。おやじがベビーベッドで眠る子供の写真を撮るのだが、まるで死体を撮っているような気持ち悪さ。そのあと、「パパ」と幼子が呟く声で、この小汚いおやじの印象を変える。ここにも懐疑なしの「本物の声」が埋め込まれている。それはもちろん映画なのだから、録音機器を通して録音された声(何度も同じように再生し得る声)なのだが、一回性の声であるかのように提示される。
  • オットー・プレミンジャーの『或る殺人』を見る。評価するには難しい映画ばかり見たあとに、こういう映画を見ると、最高に気持ちがいい。「酒場のおやじの車に乗ったのは初めてでしたか?」とジョージ・C・スコットが疑いながら尋問するとき、カメラが証人席のリー・レミックの顔にわずかに寄る。「初めてでした」と答えるときに、彼女の瞳孔が蓋がれたように翳る。人間の眼にはこうは見えないだろう映像が現れる。非人間的なものの出現の可能性、これこそが映画の面白さなのではないか。そしておそらく『落下の解剖学』のダニエル少年の濁った鉛色の瞳孔はここから意匠だけを借りてきているのだろう。『落下の解剖学』のお芝居の上手なドックであるスヌープに比べて、『或る殺人』のムフの、ぽちりと電燈を点けるだけの犬らしい可愛さよ。そういえばレオン・ユリスの『Exodus』を読んでいるショットがあったが、プレミンジャーはこのあとこの小説を原作に『栄光への脱出』を撮るのだった。

  • ジュスティーヌ・トリエの『愛欲のセラピー』を見る。ベルトラン・ボネロの傑作『サンローラン』のギャスパー・ウリエルが出ていて、そういえばもう彼は死んだんだったと思う。ヴィルジニー・エフィラの顔は好き。途中からゴダールの『軽蔑』ごっこのような映画になる。やはり、『落下の解剖学』と同様に、たまたまマイクが拾う声と、映像とは無関係に(無関係であるかのように)サウンドトラックを埋める心の声が、核になる映画。声(録音物)が核にあって、映像はその解釈やイメージ(「写真はイメージです」の注意書きにも似た)としての映画。告白と独白をめぐるゲームとしての映画であり、常にそのゲームへ参与してくれる観客を誘う映画。人間のコミュニケーションの道具として作られている映画の不愉快さ。そんなつまらないことを、私は、映画がしなくていいと思っている。

  • 昼に起きる。「しま」のごはんを準備して、枕カバーを洗う。洗濯機を回す。ロベルト・ユンクの『千の太陽よりも明るく』を読んでいると、レオ・シラードが出てくる。彼は1898年のハンガリー生まれである。それなら『黄金列車』のバログと、ほぼ同い年だ。ヴィルヌーヴの新作が来ているというのに、昼から『落下の解剖学』の二回目をシネ・リーブル神戸まで見に行く。一度目よりはまだいらいらしないが、しかしこれでパルムドールなのかと思うが、最近はいつだってこんなもんじゃないかと思うと、こんなもんである。映画館を出るとぱらぱらと雨が降っている。商店街を歩いて帰る。

  • 風呂に入りながらマーティン・エイミスの『時の矢』を読み終える。たとえその語りが私のことであっても語られる私と語る私との間に何らかのずれがなければ語りは生起しえない。だからこの小説が「私は暗黒の眠りから抜け出る」で始まり、「早すぎたのか、はたまたあまりにも遅すぎたのか、いずれにせよ時期外れにやってきた私」と、どちらも「時期外れ」で終わるのはまったく精確である。そして語られる「私」は「医者に見守られながら人間は人生の両端で泣き叫ぶ」のである。「ここにはなぜ、はない」の章は、アウシュヴィッツ=ビルケナウの焼却炉の煙突の口に向けて「蝟集する魂で地獄のように真赤に燃える夕暮れの空」が流れ込んで灰と糞の塊から無数のユダヤ人を作り出す生命の泉で勤務する医師たちの姿や「《傾斜路》でのスタッグ・パーティの後、監督囚人たちが花婿の親友のように男を――新しくごみと糞を振りかけられた――待機中の貨車に押し込み、家路の旅へ送り出す」さまなど、絶滅収容所の姿を逆まわしに描く。これらはとてもグロテスクだが、プリーモ・レーヴィパウル・ツェランのあと、「いずれにせよ時期外れにやってき」て、逆さまにしかホロコーストを見ることのできない1949年生の作家であるマーティン・エイミスが、それでもジェノサイドを書くことの取り組みとして、このグロテスクは誠実である。
  • ところで『時の矢』のカバー袖の著者紹介には「『ロンドン・フィールズ』(角川書店より刊行予定)」とあるが、結局出なかったのは残念。
  • 梅田に出る。フラベドのスコーンを食べる。お茶を飲む。グッチのパーカーはフードのエッジがバロック美術の彫刻のようだった。夜は、久しぶりにおおさかぐりるでとんかつ定食を食べる。店の有線で流れていたNiziUの《SWEET NONFICTION》がものすごくいい曲に聴こえた。『メタル・マシーン・ミュージック』を聴く。

  • 昼過ぎに盛んに降り出した雨は、帰るころには止んだ。今もないんだが学生の頃お金がなかったり知識がなかったりで何となく通らずにきた音楽を、試聴せずに(検索してレビューを読むのはOK)中古CDで買ってきて聴いている。ルー・リードの『メタル・マシーン・ミュージック』を聴いてみる(続きを見なきゃいけない映画があるのに逃避である)。眼を瞑って肩の力を抜いてだらんと聴いていると、頭の中がどんどん静かになってくるのがノイズだが、このアルバムの音楽も同じ。曲と曲の間の無音の数秒に、いちばんどきっとさせられる。ロベルト・ユンクの『千の太陽よりも明るく』を読む。