• 風邪をひいたらしく、帰宅すると柚子は早めに休んでいる。食卓の上のビニール袋のなかに、買っておいてくれた中華が入っていて、食べる。古本屋で注文していた金村修の最初の作品集『Crash landing』が届いている。透明度の高くてすみずみまでクリア(ちょっと驚いた)な黒白写真がページの上部を、八方破れのテクストが下部に並んでいる。

  • 福島第一の原子炉のデブリの映像が流れている。原子炉のなかに飛び込んで確認するということができないので、それが硬いか柔らかいかさえ判らないという。ロボットの指先を突っ込んで、触ってみるそうだ。しかし、透明な液体にぷかぷか浮いている茶色のデブリは、どうしたって、ウンコにしかみえない。「洋式のものは水中に沈んでいるのでアルコール漬の摘出物を見るように冷静に観察し得る。(…)時としてその糞便のかたまりが他の物体の形状を思い起させ、人間の顔に見えたりもする」と、谷崎の「過酸化マンガン水の夢」を思い出したりする。お湯を沸かしてウンコをひり出す装置としての原発
  • ミヒャエル・ギーレンが亡くなった。夜中にCDの山を崩して、ストラヴィンスキーの《カンティクム・サクルム》を聴く。ギーレンは声の扱いがとてもいい。ぽろっと出てきたカーターの《ピアノ協奏曲》の録音も聴いた。合掌。

  • 午後遅くから柚子と実家に。三宮でケーキを土産に買う。いつものように祖母の分も。
  • 母と妹は梅田に買物に行っていて、父と猫たちがいる。祖母はいつも寝ていたベッドに横たわっているが、しかし顔には白い布を被せられている。掛け蒲団の胸の上には、ときどき猫が蹲っていたが、きょうはドライアイスを入れた水枕が乗っていて、さらに、経帷子も拡げて被せてある。
  • 顔の白い布を取ろうと思うが、顎の辺りをちょっと捲っただけで、そのままなおしてしまう。父が、顔の覆いを全部取ってくれる。久しぶりにお化粧をされていて、紅が唇をまっすぐなぞっている。最近は、いつも眠っていたので、そんなことはないのだと知っているけれど、このあと、眼を開けてもおかしくないんじゃないかと思う。
  • 父と柚子と三人でケーキを食べる。父が紅茶を淹れてくれる。猫たちと遊ぶ。近所のFさんの家の長女(私よりひとつか二つ年上で、小学生のとき、集団登校のおなじ班だった。会うのは数十年ぶりだと思う)が弔問に来てくれる。やがて、母と妹も帰ってくる。明日の打ち合わせをして、帰る。柚子と三宮のモスバーガーで簡単に夕食を済ませる。帰りの電車のなかで、『なぜ、植物図鑑か』を読み終わる。たぶん、何度も引用されたであろう、「写真とは、映像とは」どのようなものであるかを説いた一節。

現実からその一部を「引用」し、それを再び現実へ挿入すること。この作業によってその限られた現実は疑問符を付された現実に変質し、それが再び現実の総体に投げ返されることによって、今度は逆に現実総体が虚構化される。このサイクルが写真家の表現である。一度、現実へ投げ返された映像は再び第二の現実として他者の「引用」に向かって開かれているのだ。

  • 更地になった近所の家の敷地からは、あのふてぶてしく立派な梅の木さえどこかへ持ち去られて、ただの空き地になり、そこに不動産屋の幟が二本、突き立ててあった。

  • 日常のあれこれに紛れてじぶんの誕生日さえ忘れてしまうというのはよくあるクリシェで、そんなことあるかいと思っていたが、けさ職場へ行く道すがら、「あ、今日は誕生日だった」と思い出す。きのうは覚えていたけれど、けさは忘れていた。
  • 近所の家の解体工事はすっかり進んで瓦礫も撤去され、敷地の隅には、低い背で幹をたっぷり太らせた梅の木が一本残っていて、延びた枝枝にみっしりと花がついている。立派だなあと感心する。
  • 職場を出る。須田亜香里からのモバメが、誕生日のひと向けの特別なメールで、「無理したり頑張らなきゃならないときもあるだろうけれど、どんなときも、じぶんはどうしたいのか?何のために頑張っているのか?という本音を忘れないようにして、心をすり減らすことなく、じぶんを大切にしてね」というようなことが、とても親身な言葉で綴られていて、感涙する。
  • 帰宅する。ふと、携帯をみると母から留守電。「わざわざ誕生日だから電話してくれたのか?」と思いながら再生すると、「アーちゃん、亡くなりました」と母の声。祖母が死んだ。

  • 朝から近所の歯医者に行く。そのままもうひとつ病院に行こうかと時計をみるが、もうじき閉まるので家に戻る。ぶらぶら歩きながら写真を撮る。いちど帰宅して、パスタを茹でてミートソースで食べる。台所で洗い物をして、洗濯機を廻す。ベランダで洗濯物を干すが「しま」は暖房にあたっていて、やってこない。
  • 夕方からまた出かけて病院に行く。採血される。元町の古本屋を廻ろうかと思うが、また今度にして、家で、ストローブ=ユイレの『アンティゴネ』のDVDをひっぱりだしてきて、みる。途中少し眠るが映画館でみるときのように「しかたがない」と巻き戻さず最後まで。当たり前なのだがこの作品のフレームは映画であって決して演劇ではないのである。ずっと固定されていたショットがいきなり切り替わる瞬間の驚き、ショットのなかに捉えられた人物や光線の動き、画面の外から聴こえてくる声や物音の響き、すなわち映画であるということを、より効果的にするために、彼らの映画づくりのルールはあるのだということを再確認する。しかし、やはりブレヒトは、どういじくってもブレヒトである。撮影はウィリアム・リュプチャンスキで、その連想から『美しき諍い女』のディスクも出してきて、最初の三〇分ほど(《美しき諍い女》という画題が飛び出してくるあたりまで)をみる。エマニュエル・ベアールは出てくると、いきなりポラロイドを構えて写真を撮るのだった。
  • 「しま」が真夜中に鰹節をねだって、階段の下までやってきて、よく徹る声で鳴く(ので、けっきょくせしめられる)。風呂に入ってから眠る。

  • いつのころからか仕事に行く前に風呂に入るようになっていたのだが、昨夜は柚子のすすめに従って寝る前に風呂に入った。すると、朝がすごく楽だった。これからそうしようと思う。
  • ティモシー・モートンの『自然なきエコロジー』も読んでいる。ところどころ「おっ」という箇所もあるが*1、たとえばこれが佐々木敦なら扱う音楽がもっと面白くて、この半分のページで書いちゃうだろうなと思うと、ちょっと読むのがしんどい。
  • 帰宅して、パスタを茹でて、柚子のつくってくれたミートソースで食べる。明日休みだからいいやと、けっきょく風呂には入らずに、しかも須田亜香里のひとり喋りの『1×1は1じゃないよ!』さえ聴かずに(radikoのプレミアム会員になったゆえの油断)居間でそのまま寝てしまう。

*1:モンタージュは、ちゃんと批評的なものになるには、内容を枠と並置しなくてはならない。なぜか。形式と主体の位置を混合させることなくただ内容を並列するだけでは、事物をそのままで放置することになるからだ。(…)項目をリストへと追加していってもなにをしたことにもならない。「内容」のもっとも極端な例は、書くことにある、なんとかしようともがく性質である。「枠」のもっとも極端な例は、事物をそもそも意味のあるものにするイデオロギーの格子である。アンビエントな藝術は、書くこととイデオロギーの格子をこうして(弁証法的に)並置することへと向かう。枠のない客体を提示するか(たとえばギャラリーで「材料」を積み上げる)もしくは客体のない枠(白いキャンバス、空虚な枠など)を提示することで、アンビエントな藝術は内容と枠の溝を問う。内容と枠を並置するには、それらのあいだにある溝を保たなくてはならない。」(278頁)。

  • 百田某の史書もどきを「私たちが批判しているのは歴史修正主義の本だからではなくパクリ本だから」というひとが少なくないが、パクリ以前にやっぱりダメだろう。
  • 仕事始め。帰宅して柚子と晩御飯を食べながら、深作欣二の『日本暴力団 組長』をみる。『仁義なき戦い』より以前の、『黒蜥蜴』を撮ったすぐあと。とてもアンバランスな政治映画で、三島というよりむしろ大江健三郎の「セヴンティーン」などをふと思い出す。もちろん『奔馬』の「日輪は瞼の裏に赫奕と昇った」というのを思い出してもよいのだろうが、サングラスの向こうの鶴田浩二の双眸は、その死後も、戸惑ったように見開かれている。