• 柚子と昼から出かけて中之島公会堂マシュー・バーニーの『リヴァー・オブ・ファンダメント』をみる。『クレマスター』の全上映会にも柚子は付き合ってくれたのだった。
  • 未分化の、なにものに変化するかまだ決定されていない粘液を溜め込んだ袋には、開閉の調節可能な弁のついた穴があり、そこからいろんなものが出たり入ったりする。入るものは14分割されたアメ車や頭蓋にのめり込む銃弾から出るものは大便やら水銀の精液までさまざまだが、このイン/アウトの運動がひたすら繰り返される。このイン/アウトをし続ける存在としての自動車から人間の営みが捉えなおされる。逆ではない。
  • KJも激務のなか見にきていて、帰りに三人で淀屋橋駅のベローチェでちょっとお茶をする。

  • 朝いちど起きて、柚子が出勤するのを見送り、ペットボトルを棄てておいてねと頼まれる。蒲団の上に転がって眠る。
  • 昼前に起きて、公園の外まで、資源ゴミがまだ出されているかを確認しに行く。小雨が降っているので、白濁色のビニール傘をさして。家に戻り、カメラを首からぶらさげて、ペットボトルばかりがいっぱいに入った驚くほど軽いゴミ袋を持って、公園のいちばん向こう側まで歩く。写真を撮る。うずたかいゴミ袋の山のなかで、それを積み替えているのか何かを漁っているのか、こちらからは彼女の背中と尻の一部しかみえないおばあさんがいるのに、ようやく気づく。ゴミ袋を置いて、そっと立ち去る。入ったことのない路地に入り、写真を撮る。写真を撮るのは、とてもやましい。もの盗りが空き巣を物色してうろうろしているのと、たぶん同じだから。シャッターを押すために一瞬立ちどまるたび、ひやっとする。

  • 職場のどうでもいいレポートも、じぶんで書く批評も、書いているのは私だからどちらもだいたいそんなに書くのは早くなくて、いつも困る。
  • 雨がざざっと振ってくる前に洗濯物を取り込み、皿を洗ったりする。夕方から大阪まで出て、画廊をひとつ覗く。セブンイレブンでコーンに入ったアイスクリームを買って舐めながら、このごろとても怒りっぽくなっているのをじぶんでも認める。子供のころ、私は癇症で、たぶん母はずいぶん手を焼いたのだろうが、私はそのたび、じぶんなりの理屈があって怒っているので、憤懣やるかたなかったのを、ぼんやり思い出す。写真を撮りながらぶらぶら歩いて堂島のジュンク堂。何か一冊買おうと決めて、ウティット・ヘーマムーンの『プラータナー』を求める。帰宅して柚子とKFCを食べる。

  • 朝、近所の駅まで戻って、そのまま歯医者。麻酔をかけられて、虫歯をごりごりと削られ、樹脂で埋めて、この箇所の処置はこれで終わり。次の箇所はまた歯形を取って、になるらしく、次の予約をとる。帰宅して、柚子から頼まれていた梅の木の枝を切ってつめたゴミ袋を棄てて、鍼に行く。「コフタ」でカツカレーを食べて、名古屋に。柚子と「しま」へのお土産にエスカ(SKEメンのポスターがなくなって悲しい)で「赤福」を買ってから栄に出る。街中でうろうろと写真を撮ってから劇場に。チームS《重ねた足跡》公演をみる。若手メンバーも多かったが、きょうは凝縮度がいつも以上に高くて、すごく充実していたような気がする。MCなしでぶっ飛ばす最初の四曲、その最後の《強がり時計》の世界にのめり込んでいるせいで、他のメンバーより帰ってくるのが遅れて放心状態の、しかも帰ってきたら帰ってきたで、完璧につくってきた前髪がぐちゃぐちゃになっているのに気づいて、それをどうにかしたくてずっと髪を触っている野島樺乃が、最高に愛おしかった。

  • 夕食をとりながら、ぼんやりTVを眺めていたら、「あのひとは子供が欲しくないっていっていたので……でも、この子がいることを知ったら、自殺しなかったかもしれない」みたいな台詞が聴こえてきて、自分の子供は欲しくないといっていたのなら、そのことこそが嫌でたまらなくて、最後のひと押しになることもあるだろうと思う。
  • 「私にも子供がいるので、こんな凶行は許すことができません」と、マクラのように書くひとの文をみるたび、失笑を噛み殺す。ガキがいようがいまいが、子供は殺しちゃまずいのだ。あんたはガキがいるからそう思うんでしょうが、こちらはいませんから、幾らでも凶行に奔らせてもらいますよと、開き直らせるだけのことを、わざわざどうして書くのだろう(そもそも、あちら側のひとに向けた言葉ではなく、こちら側のひとたちへの、説得のための阿りなのかもしれないけれど)。

  • アラザル』12号に載った堤拓哉の批評「「重症心身障害児(者)」と「芸術」の臨界点」について、書いておきたい。
  • 堤は、重症心身障害児者の女性を、施設のスタッフであったサザーランドという男がレイプして妊娠させた事件を、ただ被害者が、無抵抗な物体のようにレイプされたというのではなく、ふたりの間には「恋愛関係があったと仮定してみたい」と書く。
  • これは、そういうふうに考えることで、「《「重症心身障害児(者)」に恋愛ができるはずがない》という、私たちの思い込みが露わになるからである」と堤は述べ、このように「仮定」することは、私たちの偏頗な常識への揺さぶりであり、「問題提起」なのであると書く。さらに堤は、加害者と「被害者の本気の恋愛があったかもしれないと想像することで初めて、「重症心身障害児(者)」の人権や人格を尊重することになるのではないか」と書く。
  • 堤は、相模原の虐殺事件の加害者とおなじように「健全者」である私たちは、所詮、「重症心身障害児(者)」のことを何もできない、ただ生きているだけのものみたいなもんだと思っているだろう、と突きつけたいのだろう。しかし、レイプをレイプでないものにしてしまうことは、「問題提起」ではなく、議論のコミュニケーションの渦に読み手を否応なく巻き込むための、いわゆる「釣り」に過ぎない。アジビラならともかく、堤が書いているものが批評であるならば、批評が「釣り」をやるのは、まったく感心しない。
  • やはり、どうしたってレイプはレイプなのだ。「本気の恋愛」のあるなしなど、まったくどうでもいいことだ。「人権や人格を尊重する」ということが、恋愛などの親しいコミュニケーションや家族の睦みあいのようなものからでなければ生成しないと考えることを、やめなければならない。或るひとの生のどこにも他者からの共感も愛も何もなくても、人権や人格が尊重されなければならないのは、等しく生得のものなのである。これは現実を見ることをしない理想論などではなく、そのように遍く設定され、履行されることが、社会の誰にとっても、最も大きな幸福という利益を齎すからである。
  • むしろ、そこに欠片も存在しなかっただろう恋愛を仮定するよりも、重症心身障害者の暮らす職場で「約八年勤めていた」にもかかわらず、(堤の文から幾つか言葉を借りるなら)、彼らが不断に発していたであろう「動き」を、「不断の闘争(ふれあい)」を感受することに耳も眼も塞ぎ、ただ、「性欲処理」のためのもののように重症心身障害児者をレイプするだけだったサザーランドの加害者への転落を、その暴力をみつめることをしなければならないだろう。被害女性に必要なのはケアである。
  • そして堤は、サザーランドは既婚者だったから、重症心身障害者の被害者の女性との間に「本気の恋愛があったかもしれないと想像する」なら、被害者は「浮気/不倫したことにはなるが、それはまた別の問題として」と書く。重症心身障害者もまた、不貞の加害者になることができるということだろう。堤は、重症心身障害者も「本気の恋愛」ができたり、加害者になれるという可能性を外から性急に付与することで、彼が批判しているはずの「普通に生きる」ことを、むしろ、彼らに生きさせようとしてしまっている。
  • 堤は「《いかに「普通」でないように生きられるか》」がこれからの「《「重症心身障害児(者)」の命のあり方》」で探られるべきであり、それは「社会との関わりをもっともっと持てるようになった地平に、見えてくるに違いない」と書く。だが、「重症心身障害児(者)」は、ただ黙って被害を蒙るだけでなく加害者にもなれるのだと「仮定」して、彼らの生のありようを引き伸ばしてゆくとき、それは、堤が最も批判したい対象であるだろう植松聖の浅薄な有用性の物指しと、やがて分かち難く癒着してしまうのではないか。