踊る?踊らない?

  • きょうから再びアルバイト。
  • 夜は「Skype批評」の試み。PCがぶっ飛んでA君、風邪でぶっ倒れてpayumu君などが次々と脱落するなか、素敵な音楽に触れると身体が揺れるT君と、耳が鋭くなってゆくMR君と、音楽の聴き方、音楽と「場」に就いて、夜遅くまで延々と語る。
  • ふと、2007年、「批評家養成ギブス」の「音楽批評」の回で、じぶんが書いた批評文があったのを思いだしたので、ひっぱりだしてきたものを、貼り付けておく。たった一年前ばかり前の文章だけれど、今読み返すと、ちょっとどころか、ずいぶん恥ずかしいなぁと思う箇所もあるのだが、直さないでおく。
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夜はやさし田中フミヤ『via』をめぐってグルグルと〜」

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  • 真夜中から朝まで、DJはターンテーブルの上でレコードをかけ替え続け、ミキサーを操作している。やがてフロアをいっぱいに埋めてゆく人びとが、DJの紡ぎ出している音楽に身体を揺らし、賞賛の声を上げる。DJは、レコードを繋いでいるだけではなく、口元のインカムマイクへ、時折ぽつぽつと呟いている。そのうちの幾つかを拾ってみる。
  • 「全体の流れを考えて さっきミックスしたレコードをちょっと足していく」
  • 「全体的にモノクロなトーンを ちょっと華やかに 少しずつ変えていく」
  • 「全体の流れで展開がついたので ミニマルな展開に戻す」
  • 「フロアの反応に注意する 選曲のかけ間違いに注意する」
  • 「全体の流れの中で この辺りから少し変化をつけていく」
  • 「お客さんの反応があるので フロアの流れに注意しながら選曲する」
  • 「ここで変化をつけて フロアに流れをもうひとつ作る」
  • 「低域のグルーヴはこのままキープ」
  • 「全体の流れの中で この辺りから少し変化をつけていく」
  • なぜ、じぶんは今、こう云うふうな音を鳴らしているのか、それを語りながら、或いは黙々と、DJ----田中フミヤはプレイを展開させてゆく。『via』は、その様子を、五つに分割されて各々で固定された画面で捉えてゆく、ドキュメンタリィの映像作品のスタイルを取っている。
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  • 田中フミヤは、なぜ『via』を作ったのか? 
  • 「2年くらい前だったと思うんですけど、自分がブログに「フロアにレコードが選ばれる」というようなことを書いたことがあったんですよ。でもある人からは「自分はフミヤさんのかけてたレコードとは違うものがかかるべきだと思った」というような内容のことを言われたことがあって、それならプレイ中に考えていることを言葉にしてみることで、何かしらそこの認知の差を埋めれる、きっかけになるひとつのトリガーをひけることができるんやないかな」と、考えたことからだと云う*1
  • 此処で田中が述べているのは、ある人がかけるレコードとじぶんがかけるレコードの判断は異なり、それは相対的なもので、だからこそじぶんのジャッジをひとに説明したいと云うようなことではない。田中は、じぶんはそのフロアで、これしかないと云うレコードを選んでかけていると述べているのである。わたしやあなたの趣味によってではなく、「フロアにレコードが選ばれる」と云うふうにレコードをかけている田中にとって、たまたま「違うもの」がかかってもよいと云うようなことはないはずである。
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  • 先程、少し引いたが、『via』のなかで田中が呟くコメントのなかで頻出するのは、「全体の流れ」、「フロアの流れ」、「変化をつける」、「お客さんの反応」、「低域のグルーヴはこのままをキープ」などの言葉である。
  • では、これらの言葉のなかで、例えば「全体の流れ」とは、何だろうか?
  • 田中が作る音楽は、指揮者がオーケストラを率いてドビュッシーを指揮するときのように、あらかじめ決められた楽譜があるわけではない。もちろん、DJブースに用意されているレコードが、あらかじめその選択の幅を決めてしまっていると云うことはできるかも知れない。
  • だが、田中は自身のプレイを、「クラブの現場ではお客さんや照明や、その時の雰囲気だったりというような安定することのないたくさんの要素のなかで「いま何がかかるべきレコードなのか」っていうようなことは常に変化していくので、それら全ての情報を総合的に判断して、自分なりにその都度「何をプレイするのがベストなのか」ということをひたすら模索し続けてプレイしています」と述べる。
  • つまり、このレコードの次に、どのレコードをかけるかは、あらかじめ決定することはできないと云うことである。無理に決めてしまって動かさないと云うことは無論可能だが、そうすると、音楽は、いま「かかるべきレコード」のそれではなくなってしまう。実際に田中の発言のなかには、「お客さんの反応がいまいち無いので ここで少しムードを変える」や「もう少しキーが高いフレーズが入って もう少しメロディ的な展開が入ってもよかった」などの言葉も含まれる。それは、「何をプレイするのがベストなのか」を掴み損ねてしまうこともある、と云うことである。
  • だから、再び繰り返すが、肝心なのは、どうして他のレコードではなく、そのレコードが選ばれているのかと云うことであり、なぜ「低域のグルーヴ」をいじらずに「このままをキープ」なのか、などと云うことである。
  • それは、画家が、なぜその他の色ではなく或る色を選び、或るタッチで画布に塗るのかと云うことや、精子卵子の結合の結果であることでは変わりはないが、どうして他の誰かではなく、「この」世界に、「この」私や、あなたが存在しているのか、と云うことと、まるで同様なのである。
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  • 整理してみよう。
  • 常に揺れ動く状況を目の前に、「かかるべきレコード」は瞬間瞬間で、変わる。しかし田中は「全体の流れ」や「展開」を、おぼろげではあるかもしれないが、知っている。そうでなければ、「全体の流れの中で この辺りから少し変化をつけていく」などと云うことは云えないはずである。田中によると、レコードは「フロア」に選ばれているのであり、だからそれは、一方的な田中の展開や趣味の押しつけではない。
  • 云い換えるならば、田中に或るレコードを選ばせている「フロア」とは、いったい何処にあるのか?
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  • 批評集『言語と沈黙』の著者であるジョージ・スタイナーが、ハイデガーの存在の哲学を論じた本*2のなかで、次のように書いていることは、田中フミヤの音楽を作り出すことの謎と、そのまま結びついている。

では、いったい音楽とは何ですか?」と、別の遊星からの仮構の質問者が問うとする。われわれはあるしらべを歌うか楽器を鳴らすかして、躊躇することなく「これが音楽です」と言うであろう。もし彼がさらに、「それは何を意味するのか?」と尋ねたならば、答えはそこに、圧倒的にわれわれのなかにあるわけであろうが、それをはっきりと口に出して言うことはきわめて困難であろう。

  • われわれは誰もが、音楽を知っている。しかし誰も、音楽を知らない。
  • それは、再びスタイナーの言葉を借りて云い換えてみるならば、「「音楽」という現象のどこに、われわれは聴き手や演奏者において人間意識の構造を変えることのできるエネルギーがあると見定められるであろうか?」と云うふうにも問える。では、それは、レコードの溝の奥にあるのか? レコードのかけられる順番のなかにあるのか? タイミングのなかにあるのか? ミキシングのなかにあるのか? 田中の頭のなかにあるのか? その指先にあるのか? フロアで踊っているきみの身体の動きのなかにあるのか?
  • レコードを選んでいる「フロア」は、何処にあるのか?
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  • 或いは、こう云うふうに問うてみることもできるかも知れない。
  • 田中は、なぜこの作品に『via』と云うタイトルをつけたのだろうか?
  • 「via」とは、英語で「〜を通って、〜経由、〜によって」などの意味を持つ。だから、例えば「viability」とは「(胎児・新生児・種子などの)生育能力」と云うことで、其処から「実行力」や「可能性」などの語意も持つ。「viaduct」は、道路や鉄道などの「高架橋、陸橋」のことである。ちなみに、強烈な勃起治療薬である「バイアグラ」の名前のなかにも、この「via」が含まれている。
  • 「フロアにレコードが選ばれる」ことは、つまり「フロア」が鳴るのは、田中フミヤと云う存在が「via」されることによって、可能となる。その経由したものを、田中のDJプレイが、再びフロアに送り返す。
  • それは、田中フミヤによる「翻訳」であると云い換えることもできるだろう。だが、翻訳には常に誤訳の可能性が付きまとうように、この場合でも、田中のプレイがそれを十全に展開するときもあるだろうし、できないときもあろう。
  • 言葉と云うものの持つややこしさが、顔を出す。
  • 言葉は、「フロア」や音楽を表現することはできるが、その総てを余すところなく表現することはできないからだ。
  • 手練手管超絶技巧の限りを尽くして、田中によって翻訳された言語が「フロア」へキャッチアップしようとしても、その実現されたものには、必ずズレを伴う。
  • 地獄から煉獄を経て、遂に天国に至るが、其処で「私の言葉は、まだ乳首を吸う幼児の舌よりも、なお舌足らずになってしまう」と嘆くダンテの『神曲』の昔から、言葉が「腐れ茸のように口のなかで崩れてしまう」ホーフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」、「適当な表現の可能性がない、書く人の仕事は絶望的だ」と恋人に書き送ったカフカ、「おお言葉よ、言葉、我に欠けたるは汝なり!」と叫んで未完に終わったシェーンベルクのオペラ『モーゼとアロン』、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と云うウィトゲンシュタインの前期の哲学……いやいや、何もこんな大袈裟な例ばかり持ち出さなくとも、じぶんの気持ちをうまく相手に伝えられない、語れば語るほど、言葉は他人行儀で、じぶんの想いをまるで保存していない、と云うような経験をしたことがないひとは、たぶんいないだろう。
  • それらの危機の最も鋭敏な聴き手のひとりだった、ベンヤミンの「翻訳者の使命」*3から引いておこう。

あらゆる翻訳の途方もない根源的な危機、すなわち、あれほどまでに拡大され支配し尽くされた言語の門が不意に閉まって、翻訳者を沈黙のなかに閉じこめてしまう危険が潜んでいる。

  • そのベンヤミンが最も評価したのは、ヘーゲルシェリングの同窓である19世紀初頭のドイツ詩人ヘルダーリンによるソポクレスの翻訳だった。浅田彰によるザックリとしたパラフレーズを引くなら、その評価は、「言葉というものを、意味を伝達した後はフッと消えてしまう透明な媒介としてではなく、いわばゴツゴツとした物質的な手触りを持った存在としてあらたに発見した」*4と云うところに於いてである。
  • スタイナーが、ハイデガーの存在の哲学を説くために使った、「宇宙人と地球の音楽」の挿話を思い出そう。其処では、問いは、答えのなかにすっかり解消されてしまうものではなかった。「答えはそこに、圧倒的にわれわれのなかにあるわけであろうが、それをはっきりと口に出して言うことはきわめて困難であろう」。
  • それはまったく、田中フミヤの音楽そのものではないか。
  • 「フロア」から常に呼びかけられながら、viaされながら、それらをキャッチしつつ、キャッチアップしようとして音楽を鳴らしているのが、田中のDJプレイだからである。
  • 田中は、そのプレイを通じて、「フロア」そのものへと漸近しようとしている。『via』のなかで石野卓球を始めとする田中の周囲の人びとが口々に語る、「DJとしての異常な集中力」とか「ものすごくプレイに就いて真摯に考えている」とか云う事態は、総てその呼びかけに応えるためにのみ向けられているのだろう。田中フミヤはその裡に、吃音のモーゼと雄弁なアロンのふたりを同居させている。
  • しかしそれでも、田中の奏でる音楽には、やはり「フロア」のそれとは常にズレがつきまとうだろう。
  • だが、そのズレこそが、田中フミヤベンヤミンの云う「沈黙」から救っているし、「被造物のことは総て造物主である私が最も良く知っている」と云う、ありがちなクリエイタの作品認識と自己像からも、田中を大きく隔てた場所においている。ズレがあるから、田中には、田中自身も知らない音楽を経由(via)させて、顕在化させてしまうこともあるだろう。だからこそ田中は、「音楽」の「基本的な最初の出発点」を語って、次のように述べるのだ。
  • 「音楽って変に意味付けしたり、それが個別で美的意識を持つものでもないし、見たり聞いたりした人それぞれによって、ものすごい価値を持つ物であったり、そうでなかったりするもので」、「もっといろいろな表現手段や、視点があっていいと思うし、いろんな勘違いも含めて、それが音楽のダイナミックさやと思うから」。
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  • もういちど、スタイナーの言葉を借りておこう。

音楽にあっては、存在と意味は切り離しがたい。それらはパラフレーズを拒否する。しかし、たしかにある。この「本質」の経験は人間の意識しているいかなるものとも同じく確実である。

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  • 新しい夜が来る。
  • 田中フミヤはそのたびに何度でも、フロアに戻ってゆくだろう。朝までレコードをかけるだろう。地獄や煉獄さえ彷徨いながら、「フロア」と云う天国をキャッチしようとして。
  • 天国は、待ってくれる。
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*1:田中フミヤの発言は『via』および「HMVインタビュー:田中フミヤ」 http://www.hmv.co.jp/news/article/710100091 から引いた。

*2:ジョージ・スタイナー『ハイデガー』(訳・生松敬三。岩波書店

*3:ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」(訳・内村博信。『ベンヤミン・コレクション 2』(ちくま学芸文庫)所収)

*4:浅田彰ストローブ=ユイレを導入する」(『映画の世紀末』(新潮社)所収)