もどき(その四)

  • 原稿用紙15枚までで何書いてみろと云われて、ぽつぽつともう五年ぐらい前から書こうとしているSFっぽい世界をベースにした短篇を書き始めたのだがちっとも進まず、それを全部棄てて、じぶんの知っていることや知らないことをいいかげんに書き散らす、と云うふうにシフトして、何とか仕上げた。
  • 題名は「於フォルモーサ、カフェ・リュミエール発ノルマンディ行」にした。
  • これは、宮沢さんが、二〇〇七年だか〇八年の初秋、台湾を訪れたときのことだ。
  • この島を最初に訪れたヨーロッパ人が、船の上から島をみて、思わず「フォルモーサ!」と叫んだことから、美麗島の名を持たされることになった島に、宮沢さんは一週間の予定で滞在していた。占い師が宮沢さんに、「今あなたは日本にいても碌なことがないから、南に行ったほうがいい、それも、できるかぎり遠くへ!」と云ったので、成るほどそうですか、沖縄は高いし、ちょうど前から台湾へは行ってみたかったので、と、やってきたのだ。旅の連れ合いはいない。会社は先週、辞めた。
  • 宮沢さんが、日本軍の上陸地点に行ってみようと思ったのは、ホウ・シャオシェンがプロデュースした、彼の撮った映画と同名の「珈琲時光」と云うカフェに隣接する本屋で、古い絵葉書を復刻した絵葉書が売られているのをみたときだったのではないか。大きな鳥かごのようなフォルダに挿し込んである葉書を、彼女は手にとって眺めてみた。
  • それらは、台湾各地の名所旧跡が印刷された絵葉書を、再び写真に撮ってプリントしたもので、謂わば、絵葉書のなかに、もう一枚の絵葉書が封じ込められているのだった。絵葉書のなかの絵葉書は、葉書の角に折れ跡が残っていたり、風景のおもても、しみや傷で汚れている。修整された跡は、どうやら、ないみたいだった。絵葉書のなかの短い説明文を、宮沢さんは容易く読むことができた。支那語ができない彼女だが、漢字で書かれているから、だいたいの意味が判った、と云うのではない。それはとても簡単なことで、古い絵葉書のなかの説明文は、日本語で書かれていたからだ。
  • 台湾が嘗て日本領だったことは、高校生のとき、日本史(B)を選択していた宮沢さんはもちろん知っていて、だから、台湾で日本統治の頃のものらしい絵葉書(の復刻されたもの)をみたことくらいで、ナイーヴな驚きを受けたりはしなかった。オッサンが大好きだった彼女は、女学生のころ、日本史の資料集で、眼光鋭く細面に髭をたくわえた肖像写真をみて以来、尊敬する人物と云えば陸奥宗光で、今まで読んだ本のなかでいちばん、読むのが面倒だったけれど最後までちゃんと読んだ本と云えば、『蹇蹇録』だった。
  • 明治二十八年、下関に於いて、日清戦争講和条約の案が、外務大臣陸奥宗光から清の全権大臣の李鴻章に示される。「清国ハ左記ノ土地ヲ日本ニ割譲スルコト」のなかに、「(乙)台湾全島及其ノ付属諸島嶼澎湖列島」と記されていた。このときの台湾は、政治的にも経済的にも、まだ最重要の場所ではなかったので、李鴻章は、(甲)で示された「奉天省南部ノ地」に就いては強く異議を申し立てたが、(乙)に関しては、さっさと呑んだ。
  • 朝、ホテルを出た宮沢さんは、徒歩で「台北站」まで出た。「站」と云うのは駅のこと。券売機ではなく、対面式のチケット売り場に並んだ。じぶんの番がきて、アクリル窓の向こうにいる女性の駅員に、「ニーハオ」と云って、彼女は紙切れを差しだした。ホテルで、観光ガイドブックの巻末に附いていた例文を使って、作文しておいたのだ。ノートの一枚を破り取ったメモには、万年筆で、「我要買到「貢寮」車站的単程車票」と書いてあった。この「貢寮」のすぐ近くに、日本軍は上陸したのだった。「1895年日本近衛師團長北白川宮能久親王、率領征台軍従澳底登陸。……」
  • 駅員は、區間車(各駅停車)の切符を宮沢さんに呉れた。駅に入って、彼女はプラットホームにいた駅員を捉えて、切符のおもてを見せると、半袖の制服を着た駅員は、宮沢さんを時刻表の前に導き、彼女が乗るべき電車がやってくる場所と、その時間をていねいに教えてくれた。
  • 時間通りにやってきた區間車に、彼女は乗った。
  • 台北站」は地下にあるが、暫くすると線路は地面の上に出る。窓の外に移り変わる景色を眺めるうち、いきなり「汐止站」の近くで、派手な朱色に塗られた大きな鳥居が姿を現わした。宮沢さんは思わずぎょっとしたが、間違いなく神社の入口にある、あの鳥居だった。高架の上を走る電車の窓から、本殿らしきものはみえず、灰色のコンクリートの三階建くらいの消防署の隣に、鳥居だけがぽつんと、忘れ物の傘のように、突っ立っている。
  • それから少し先の駅では、行商のおばちゃんが乗り込んできて、ビニールに詰めた山菜を、スーパーマーケットの買物籠に山盛りにして売って歩いた。宮沢さんは言葉ができず、そもそも少しも買うつもりがなかったのに、おばさんがじぶんにも声を掛けてくれないかと期待したが、もちろん彼女は、宮沢さんには目も呉れなかった。
  • 台湾の木々や緑は、日本のそれとは、ぜんぜん違うのだった。
  • 郊外だけでなく、街中にいても緑がとても多いからそういうふうな連想が宮沢さんのなかで働いたのかも知れなかったけれど、兎に角、台湾の緑に、宮沢さんは強烈な衝動のようなものを感じていた。少しでも目を離していると、すぐに建物を覆い尽くし、分厚く舗装された道路は根で突き破り、総てを、密林のなかに引きずり込んで……。
  • 鉄路と並行して流れる川沿いの、すっかり葉の落ちた木々の枝先には、大きな紡錘形の白い花がみっしり咲いていた。宮沢さんは、奇妙なかたちの花をよく眺めようと目を凝らしたが、するとそれは、羽を休めている鳥たちの群れだった。
  • 「侯石同站」と「三貂嶺站」の間には、線路に沿って点々と、何かの工場だか駅舎の朽ち果てた建物が次々と現われて、宮沢さんは少しドキドキした。彼女はオッサンだけでなく、廃墟も大好きだったからだ。日本に帰ってから暫くして、Googleで検索してみて、彼女はそれが、「瑞三礦業公司」と云う炭鉱の施設の跡だったのを知ることになる。
  • やがて、列車は「貢寮站」に着き、宮沢さんを含めて何人かがぱらぱらと降りた。小さな駅だった。古びた跨線橋を上がって、駅の外に出た。何もない。駅のすぐ前まで、もう山の緑が迫ってきている。それを背中で食い止めるかのように、線路に面して、雑貨屋と食べ物屋がひとつふたつあるだけだった。宮沢さんは、タクシーが来ないかと、少し待ってみたが、どう考えても、来るわけがなかった。
  • 駅舎の入口に、周辺の地図が掲示してある。宮沢さんがこれからめざす、下関条約で割譲が決まった台湾を領有するために進軍してきた、北白川宮能久親王の率いる日本軍が上陸したポイントの周辺は、海浜公園のようになっているようだったが、そのなかに「抗日紀念碑」と書かれている場所があった。取りあえずジャケットのポケットから携帯を取り出して、宮沢さんは地図をカメラで撮影した。
  • 駅の向こう側には、鉄道に沿って流れる川がある。その先も、山。雑貨店や食堂の並ぶ道なりに少し歩くと、川のあちら側に出ることができるらしい地下道の入口が開いていたので、宮沢さんはそのなかを潜って、川向こうに出てみた。もっと、何もない。二車線の道路が延びていて、土手のようになっており、その下を覗き込むと、背の高い草が隙間なくみっしりと生い茂り、川と同じように、ざわざわと音を立てている。投げ込まれても、たぶん見つからないな、と、静かに思った。広い空は灰色で、たっぷりと水を含んで潤っており、いつ雨が降ってきてもおかしくないふうだった。雨の用意なんて、宮沢さんはしていない。
  • もういいか、別に日本軍がきた処なんてみなくても。近くまで来たわけだし。ノルマンディならまだしも、ほら、『プライヴェート・ライアン』の、って、話もできるけれど。
  • しかし決めかねて、ぼーっとアスファルトの車道の端に立ち尽くしていると、紺色のセダンがするすると近づいてきて、宮沢さんの真横に止った。窓が開いて、助手席からおばさんが顔を出して、何やら宮沢さんに早口で捲し立てる。彼女は陳さんと云い、八七になる母親が急に倒れたと、母と同居しているいちばん上の姉から電話を貰い、ちょうど会社が休みだった夫の運転するクルマで八堵へ向かっている途中で、道が正確なのかどうかちょっと自信がなくなってしまっていたのだが、ずっと人をみなくて、ようやく宮沢さんとめぐり合ったのだった。「八堵站」は、宮沢さんがさっき通ってきた駅のひとつだったので、もし言葉が判れば、たぶんこの道で大丈夫だと思いますよ、くらいは云ってやることができたのだが、口をついて出たのは、「Sorry, I don’t know.」だけだった。
  • 宮沢さんの答えをきいたおばさんは、運転席の男に何か云った。そして宮沢さんには、どうもありがとうと云うふうに掌をひらひらさせ、しかし顔には、落胆のようすをありありと示しながら窓を閉めて、クルマは走り去っていった。陳さんの母親は次の日の午後、陳さんがそのベッドの横でちょっとうたた寝をした間に、息を引き取る。母親が死の間際に呟いた言葉は日本語だったのだが、もし陳さんが眠っていなかったとしても、彼女には母親が何と云って旅立ったのか、やっぱり判らなかったことだろう。
  • 宮沢さんは、再び地下道を通って、駅のほうへ戻った。市役所の支所のような表示がされた建物があったので、扉を押して入ってみると、警察署だったみたいで、中から警官が出てきた。彼の顔には、ぽちりと一つ目立つホクロがあり、その黒い饅頭のような中央から、一本の毛がひょろりと長く延びていた。これはわざと残しているに違いない。宮沢さんは、昔つきあっていた男の、乳頭の脇から延びる毛をぷちんと引き抜いて、男がその痛みではなく、「とても大切にしていたのに!」(幸福のお守りだったらしい)と、顔を真っ赤にしてひどく怒ったのを、ふと思い出した。ところで、この警官が腰からぶらさげていたのは、真黒なゴツいブローニング・ハイパワーだったが、宮沢さんは拳銃にはまったく興味がないので、日本に帰ってからガン・マニアの弟からどんな銃だったと訊かれても、さっぱり思い出すことができなかった。
  • 宮沢さんは「ニーハオ」と警官に云い、しかし次の言葉が出てこなかったので、携帯電話を開いて、さっき駅前で撮った地図を彼に示し、指先で「抗日紀念碑」をさした。携帯の画面を覗き込んだ警官は、しかし、その上の「尖山」と書かれている地域の突端にある「核四重件碼頭」を指さして、こっちのことだよね、と云うふうな顔で宮沢さんを見返した。何の下調べもせず台湾にやってきた宮沢さんだったが、今度ばかりはホクロの警官が何を云いたいのか判った。これは、日本企業が建設中の原子力発電所なのである。仕事でやってくる日本人が少なくないのだろう。違う違うと宮沢さんは、再び「抗日紀念碑」をさした。
  • 警官が、「Taxi,OK?」と宮沢さんに訊ねた。すぐに、「Yes!!」と返した。ボラれるのは観光客の務めと喝破したのは誰だったか。しかし警察署から呼ぶタクシーなら、ボラれたとしてもたいしたことはないだろうし、そもそも台湾のタクシーはスピードメーターなんぞお構いなしにぶっ飛ばすし、代金も箆棒に安いことを、宮沢さんは既に台北で知っていた。
  • 警官が机の上の電話を取って、暫くすると白いセダンが警察の前に横づけになった。台北のタクシーは全部黄色だったから、これはいわゆる白タクだろう。小太りの、真っ白な開襟シャツを着た達磨のような体形のオジさんが運転席から降りてきた。宮沢さんは警官に「シエシエ!」と手を振り、白タクの運転手には「ニーハオ」と挨拶して、乗り込んだ。
  • 山道をくねくねと走ると、「鹽寮海濱公園」はすぐだった。如何にも中華風に飾られた門があり、開襟シャツの達磨さんは、その前の駐車場にクルマを止める。外に出て、おじさんは宮沢さんに何かを云って、何と云われたのかさっぱり判らなかったけれど、それは「帰りも乗るよね?」と云う確認に違いないと判断して、頸を大きく縦に振った。
  • 初秋の、しかも、薄墨を流したような空模様の日の海水浴場には彼女の他に人影もなく、ゲートの脇の小屋のなかの、暇を持て余しているふうの管理人からチケットを買い、宮沢さんは公園のなかに入っていった。白タクのおじさんは、実は此処にくるのは初めてだったのだが、チケット売り場の男と駄弁りながら、宮沢さんの帰りを待つことにした。
  • 公園に入るとすぐ、大きな分厚いガラスのパネルが三面、垂直に立てられていて、何かの絵がパノラマふうに施してあり、よくみると、此処に日本軍が上陸して、兵員や軍馬、輜重物資やら何やらを、沖に停泊している軍艦や輸送船から陸揚げしている当時の記録写真を複製してあるのだった。現在の海岸と、写真に撮影された往時の海岸のラインが、ぴったりと重なり合うように、ガラスは配置されている。
  • 砂浜の手前は、荒涼とした野原のようになっていて、そのぐるりは、木製のデッキが取り囲むように延べられて、海を眺める遊歩道になっている。強い潮の匂いのする重たい風が、沖からごぅごぅと吹きつけて、宮沢さんの髪をグシャグシャに嬲った。宮沢さんは遊歩道を踏んで、原っぱと砂浜のちょうど間に建てられている、石造りの「抗日紀念碑」の前に進んで行った。以前――と云うのはもちろん、日本が戦争に敗れ、この地を去るまでの間のことだが――、この石碑は、北白川宮の上陸を顕彰するものだった。彼はその後の台湾征圧戦争の最中、日本から遠く離れたこの地で戦没している。黒ずんだ、大きな石燈籠のような碑の上には、万年筆のペン先のようなかたちのオブジェが載せられていた。
  • デッキを下りて、宮沢さんは砂浜へ歩き出した。彼女の後ろの草叢から突然、がさがさと何かが進んでくる音が立ち、ごく薄い茶色の毛をした野良犬がパッと現れて、さっきまで宮沢さんが佇んでいた紀念碑のほうに、てちてちと寄っていった。宮沢さんは、(小便でもするのかな)と思ったが、公園の管理人に「王さん」と呼ばれている犬は、まるで衛兵のように、碑の根元へ両足を前に揃えて突き出して、ペタンと座り込んだ。
  • その犬が、主任開発技師のイワノフさんが飼っていたサーシャにすごくよく似ていたので、ちょうど真上を通過していたロシアの軍事衛星のソーニャチカは、とても驚いていたのだが、この五分後、砂浜に転んで、携帯を真っぷたつに折ってしまう宮沢さんは、そんなことは少しも知らなかった。