PROVOKEはオペラを作る(いづれ、たぶん)。

  • 朝起きて、「しま」をキャリーバッグに入れて(正確には、彼女はじぶんから進んで入る)、自転車に乗って動物病院に。綺麗に爪を切ってもらう。体重を量ると3.06キロだった。ぷくぷくである。
  • 病院の待合室には大島弓子の『グーグーだって猫である』が置いてあって、ぱらぱらと読んでいると、猫が悪さをしても、こんなところにモノを置いていた私が悪いんだとすっと思えるようになった、と書いてあり、ドキリとする。きのう「しま」にぶんぶん怒ったことを反省する。
  • 早くから出かけてお寺でも廻ろうか、なんて朝は考えていたのだけれど、やっぱり家を出たのは夕方で、河原町に七時半を過ぎて着く。古本屋を廻るが、たいていはもうシャッターが降りていて、コンビニで先週の『モーニング』を見つけて立ち読みしながら、ふと気になってコートのポケットのなかの携帯をひっぱりだすと、I嬢から数度の着信。慌ててコンビニを出て、会場の近くまで行っていたのにわざわざ戻ってくれたI嬢とiiさんとOPA(もう水着の広告が貼ってある)の前で遭遇し、おしゃれなカフェで飯を食うとおしゃれ代を取るので、皿がでかくて、中身が少ない。と、云うような話で、げらげら笑いながら商店街をぶらつきつつ、そのままファーストキッチンに入って、夕食を取りながら駄弁る。横のテーブルで高校生ぐらいの男の子たち女の子たちが話をしていて、『あいのり』に出たいとか云っている。絶対やだよ(笑)。
  • 22時頃に、「カフェ・アンデパンダン*1に移動する。MR君とMT君が、入口すぐのテーブルに坐っている。MR君から、何と、このぐたぐだな暮らしの記録を読んでくださっておられると云う奇特な青年を紹介される。ホセ・ルイス・ゲリン『シルヴィアのいる街で』が素晴らしかった、とのこと*2。「ギブス」に通っていた頃、いつも講義の様子をヴィデオで撮っていた青年(名前が判らないのです。ごめんなさい)とも久しぶりに再会する。しばらくするとM2両君の、PROVOKE*3の演奏が始まるので、よくみるために、iiさんとI嬢とふたりで、バァのカウンタ席に陣取る。
  • PROVOKEはエレクトロニカなのではなく、現代音楽のアップデイトを行っているのだとつくづく思った。現代音楽は西欧クラシック音楽の系譜に属する。それは今夜のPROVOKEの音楽のなかで、ワーグナーウェーベルンラッヘンマンの曲の一部が用いられるからではなく、音響なるものと懸命に取り組んだ彼ら----自作のための専用の劇場を立て、その響きを確かめ、それを作品の大切な要素として『パルジファル』を書いたワーグナーから、ひたすら新しい特殊奏法を開拓することで、奏者と聴衆の耳だけでなく、同時に、(クラシック音楽の徹底した教育を受けた)奏者の身体的な拘束を解放しようとするラッヘンマンまで----の試みとPROVOKEがまっすぐ繋がっていると云う意味に於いて、である。つまり、彼らはクラシック音楽の、現代音楽の模索の営みから、些かも切断されていない。
  • 今回のライヴでPROVOKEは、愈々「歌」に最接近した。それは、オペラに、と云い換えてもいい。ケージやブレッソンのテクストの一節をMR君が読み(カフェの片隅に毛唐がひと塊になって坐っていたのだが、英語で書かれているケージのテクストをMR君が読み始めると、そのなかのひとりが立ち上がり、凝っと耳を傾けていた。この歌が好きだと云うときひとは、大抵、歌を聴いているのではなく、歌詞に就いて語っている)、MT君がカフェの隅に据えつけられたアップライトのピアノを弾く。それらは、紛れもない「歌」だった。
  • 彼らの作った音楽のなかで、今夜のそれは最も陶酔的だった。殆どデカダンのそれだったと云ってもいいくらいだ。決して、私がマンゴーの甘いカクテルで酔っ払っていたからではなく……。マーラーの「第十」の手ざわりとすごく近接するものを感じた。
  • ウェーベルンの歌曲が使われていて、それはとても清冽な歌声だったのだか、あとでMT君に聴いたら、I嬢の歌唱によるものとのこと。大変驚く。
  • 終電で帰宅する。帰ると「しま」が玄関で待っていて、さっそくモッテコイ遊びをさせられる(してもらう?)。
  • ところで、会社のカネで本を買う奴、超ムカツク。高い給料もらってるんだから自腹で本ぐらい買え(貧乏人の僻み)。