水泳と電子書籍。

  • 朝からずっとカルロス・クライバーがグラモフォンに残した《椿姫》を、大きな音で、聴いている。超最高級のジェットコースター。
  • 柚子からずいぶん前から「行ってきたら」と云われていたのと、123君*1に触発されたのもあり、ようやく、昼から自転車に乗り、運動しに行く。きょうはプールに入り、400メートルほど泳ぐ。腕やらがパンパンになり、プールから出て、受付の女性にカードを渡す際、ぜぇぜぇ云って、単語でしか話ができなかった。しかし、何だか大変よい気分になって自転車を漕いで家へ帰り、風呂に入ってから、アルバイトに。
  • 柚子と晩御飯を食べて、お茶を呑む。洗濯物を干す。
  • ところで、電子書籍のことなのだが、率直に云って、私は殆ど関心がない。そんなことを云っても、『アラザル』は再来月、『未来回路』*2さんからお誘いをいただいて、共催というかたちで、電子書籍に関するイヴェントをやるのであるから、この頃は、これまで全く考えなかった電子書籍のことを、時折考えることもしている(そして、このイヴェント共催の打診があった折、私は『アラザル』同人のひとりとして、大賛成したのである。電子書籍なんてものから最も遠く離れた場所にいるだろう私たちに声がかかった、というのがとても面白かったので)。
  • まず、電子書籍の議論に於いては、今、出版業界で働いているひとたちが、どうやってこれからも飯を食っていくのかということ(仕事の確保と雇用の問題)と、出版なるものが電子化することでどういうふうに変わることができるのか(変わることを余儀なくされるのか)ということのふたつが、混ぜこぜになり過ぎている気がする。
  • このふたつは分けて考えておかないと、一部の論者が後者で述べている楽観的な未来像に足を掬われて、前者で確保されるべき最終防衛線が、なしくずし的に溶解してしまう場合もあるだろうし、後者の可能性の限界を見極めるためには、前者に於けるリアリズム(寧ろこちらは徹底して、地に足の着いた暮らしから議論をせねばならないだろう)がうっかり足枷となることだってあり得る。
  • そして、これから電子書籍はどうなるべきか、というような話になると、私を含め、大抵のひとは、こんなことを云う。
  • 今、本を読むときにそうしているように、頁のカドを折れるようになったらよい。さっと書き込みができるようになればよい。絶版になっていて、古本屋で見ることもなく、出てきても到底手が出せないような値段になっている本がばんばん読めるようになればよい、等々。
  • しかし、これは結局、私たちの望みどおりに進化した電子書籍とは、紙の本と何も変わらないものであるということになりはしないか?
  • いちどに何百冊も持ち運びができるようになる点が、今の本と電子書籍は違う、というようなことは云えるだろうが、それはつまるところ収納の話であり、なるほど大きな利点のひとつではあるが、けっきょくそうであっても、私たちがいちどに読むことができる本は、一冊なのである。
  • 電子書籍は、究極的には、今の紙の書籍になる、というのならば、私たちはグーテンベルクの印刷術の登場を、決して超えることはできない。
  • そして、電子書籍を、時代を画する発明であると喧伝し、これからは電子書籍だ!と叫び散らす批評家兼編集者みたいな連中を、私が一切信用することができないのは、けっきょく、彼らが飯の種を確保するための模索を、「革命」の旗で包み隠しているようにしかみえないからなのである。
  • 云うまでもなく、どうやって飯を食っていくかということは、徹底して考えられなければならない喫緊の課題であるから、それに関する議論や行動は、大いにやればよいのだし、そのあたりをクリアにするためにも、電子書籍をめぐる言説は、ちゃんと上記のふたつを分けてやるべきだと思うのである。私は、保守反動王党派なので、革命の言葉を叫ぶ連中が好きではないというのもあるけれど。
  • さて、『アラザル』(以下は、その同人のひとりとしてのきわめて限定的な意見である)は、飯の種としてやっているのではない。『アラザル』で金がばんばん稼げるなら、それを全く拒むものではないけれど、少なくとも、今のところは『アラザル』はそういうものではない。
  • つまり、もし『アラザル』を電子書籍にするかどうかという問いの前に立たされた場合、それは、飯の種という側面から判断されるのではなく(もちろん印刷費はバカにならないので、これは考慮されるべき経済の問題として浮上するだろうけど)、けっきょく、『アラザル』の同人諸氏が、それをやってみたいと思うかどうか、という趣味判断に委ねられることになる。電子書籍にするかどうかではなく、そうすることで私たちが面白くなるのかどうか、なのである。そして、私は、それで全くよいと考えている。