『世界の現状』をみる/佐々木敦の講義を聴く

  • 昼から出かけて十三の第七藝術劇場で『世界の現状』をみる。オムニバス映画であるというのを知らなかったので、ぜんぶ王兵が撮っているのだと思ってみていて、すごい!これはアピチャッポンみたいだ!とかすンげぇペドロ・コスタみたいだ!と吃驚していたのだが、「暴虐工廠」だけが王兵の映画である。
  • 夜、廃墟の工場で紅衛兵が女性を拷問している(もしかすると彼らは文革のときの亡霊で、現在も夜毎にこれをずっと繰り返しているのか?)。女性は夫が反革命分子であることを自白せよと迫られているのだが、殴られても彼女は証言を拒否し続け、やがて、殺される。このとき、工場の外へ女性は連れてゆかれるのだが、キャメラは工場の中から、女性が連れ出されていった、開け放された扉へじりじりと寄り始める。だが、やがてキャメラは前進するのをやめて、扉の外の夜の暗闇のなかで、何か奇妙な機械がガコンガコンガコンと動いているさまを、じっと捉え続ける。この距離感がとてつもなく怖い。
  • 映画の終わりで、工場の隅で、頭から血を流して倒れている女性の屍体に向かって、その脇に立っている紅衛兵が、この女は1967年×月×日、取り調べから逃げて自殺した、夫が反革命分子であることを認めたと見做す!と云う。すると、床に倒れている女性の閉じた目蓋のあたりが、びくびくびくっと動くのである。もちろんこれは映画だから、この女性は死んでいるふりをしているだけで、死んでいないのである。しかし、これは演技や演出のミスなどではなくて、むしろ、肉体が死んだとしても断じてそんなことは認めない!という女の盛んな意志を映像が実現しているのではないだろうか?
  • その他でやはり素晴らしかったのは一本目のアピチャッポン・ウィーラセタクンの「聡明な人々」で、そこで映される水葬の風景が、ものすごく現世と地続きで、かつ、ものすごく天国的で惚れ惚れする。始まって一瞬でペドロ・コスタであると認識させるペドロ・コスタもすごいのだけれど、ネパールからバンガロールへやってきた駐車場の警備員のおじさんを映すアイーシャアブラハムも、音楽の使い方がものすごくベタで可笑しかったヴィセンテ・フェラスも決して悪くない。最後のシャンタル・アケルマンは、これはつまらんのじゃないか?これならおれでも撮ることができるんじゃないか?とか思いながらみていると、いつの間にかあれこれ考え始めてしまって、終わると、決して悪くなかったんじゃないかと思ってしまった。
  • 映画が終わって外へ出ると、I嬢とMT君がこのあとの上映へきていて、少し話をしてから、そのまま阪急で京都まで出る。