トマス・ハリス『レッド・ドラゴン』を読む。

  • 開巻しばらくすると、「犯人自身にも自分のしていることがわかっていない可能性もある。だから証拠をとにかく集めて、そこから推定するしかない。犯人の思考を再現するんだ。パターンを発見する」という立派な批評の心得が出てくる、トマス・ハリスの『レッド・ドラゴン』を加賀山卓朗の新訳で読んだ。この小説の三人の主役は、グレアムが「まもなく四〇歳になるところ」で、レクターは四一歳、「歯の妖精」は四二歳という、全員が四〇代前半(一九四〇年生れのハリスがこれを発表したのは一九八一年)小説であり、少なくともレクター以外のふたりは、四〇代を迎えて、「海が荒れたときに彼を引き止めてくれる錨」を懸命に探している。
  • 四〇歳の惑いを横糸に、この小説は、藝術という人間の営為という、ずっと古くからあるテーマを巡って展開してゆく。「歯の妖精」は、自身の凶行を「私の業。私の変身。私の藝術について」と呼び、被害者のひとりに訊ねる。「これは藝術か?」と。もちろんさし迫る死に震える被害者は「藝術だ」と即答するわけだが、殺人者はさらに「おまえやほかのアリどもが私に捧げるべきものは、恐怖ではない」と宣う。「おまえたちが私に捧げるべきものは、畏怖だ」。
  • しかし、けっきょく「歯の妖精」がつくることのできたのは、畏怖ではなく恐怖でしかなかった。なるほど、「歯の妖精」は驚くべきイコノクラスムを成し遂げるが、これもまた恐怖から出た崇敬の表現でしかなく、もちろんエレガントなトマス・ハリスがその結末を描くことはないが、これとて糞便をひりだして終ることだろう。
  • 人間は畏怖そのものをつくることはできない。そもそも、崇高とは人間がそこから追い出されてしまっているという強い感情だからである。「美しきシャイローはなんでも見ることができた。その許しがたい美は、たんに自然――"緑の機械"――の無関心を強調しているだけだった。シャイローのすばらしさはわれわれの苦役を嘲笑っていた。"緑の機械"に慈悲はない。われわれが慈悲を生み出すのだ。基本的な爬虫類の脳から成長しすぎた部分に、それを作り出す」。「それ」には、もちろん、藝術も含まれる。
  • 藝術という営みはたぶん、「うつろな空気のなかに何かのイメージを思い浮かべようとした。たとえば顔を。いまの形のない恐怖に代わるものを」というふうに始まるのだろうが、「基本的な爬虫類の脳から成長しすぎた部分」を用いて、「世界」から追い出されてしまっているというショックを、ぎりぎりまで突きつめることで、「世界」に触れようとすることをめざす。たいていは、もちろん「苦役」で終るしかないのだろう。
  • だが、その徒労がときどき、「世界」を垣間見せてくれるような気にさせるものを産み出すときがある。それが、マスターピースというものである。しかし、ここで勘違いをしてはならないのは、その藝術をつくった私たちが、「世界」と特別な関係を結びえたということではない。それは傲慢である。「シャイローは何も気にしていない」ということを忘れてはならない。何人も藝術を罰することはできない。しかし、それをつくる私たちは、「世界」の住人ではなく、ただの「社会」の一員に過ぎない。
  • それを判っていないアーティストたちがこの頃多くて、稚気であると片づけて軽蔑しておくのが優しさなのだろうが、根本に於いて藝術を誤解し、度の過ぎる自己愛に浸っているだけの彼らが、マスターピースを産み出すことができるとも思えないし、彼らが「社会」のコードを害するなら、「社会」がその藝術ではなく彼らを罰することは、当然あり得るだろう。