• 一年のうち三ヶ月も四ヶ月も書かないものが日記であると云えるのかどうか知らないが、また書いてみたい。
  • 仕事を終えて久しぶりに貸ヴィデオ屋に寄ってから、帰宅してスパゲティを茹でて食べたあと、たまたまTVをつけたら時代劇専門チャンネル深作欣二の『阿部一族』をやっていたのでみた。
  • 忠義とか家とかメンツでべちょべちょの油塗れになってゆく人びとが、そのまま火のなかに飛び込んで派手に爆死して果てるさまを、実に不気味で、気持ち悪いものとして描く。
  • 山崎努やら蟹江敬三を擁する阿部一族の人たちの茶色い膚に対して、家老の石橋蓮司やら殿様の青山裕一は白塗りに薄化粧の膚をしている。しかし、先君の一周忌の法要の席で、いきなり髻を切って武士を棄てると云いだした蟹江は殿様の逆鱗に触れて打ち首に処されて、首も晒される。この首を取り返しに騎馬で攻め込むシークェンスも悪くないが、しかし取り返された蟹江の首は、死化粧を施されたのだろうが、真白なのである。茶色の膚は、死とともに、白い膚に変ってしまう。そこからは純白の死装束を纏った侍たちやら、男たちの死に先立って我が子を手にかける女たちの眉のない真白な顔やら、画面は白づくしである。真田広之だけが、褐色の衣を纏ってやってきて立ちまわりを演じ、白塗りの殿様に向けて痛烈な皮肉を放つが、それで何かが変るわけではない(アクション俳優としての真田の巧さが光るのは、冒頭と終わりで繰り返される佐藤浩市との槍の勝負のシークェンスなのだが、それがみずみずしく溌剌と撮られるのは最初の道場での試合のほうだけである。二度目の死闘(室内での戦闘になることを想定して、ふたりは槍の柄を短く切り落とす)ではがんじがらめの状況で、活発なアクションが悉く不発するなかで、勝負は決する。阿部家の家紋が穂先で貫かれるというショットを得るためだけのシークェンスであるからだ。映画はその終わりで、白塗りの家老が、彼を重用した殿様が死んだときに殉死しなかったので、他の家臣に殺されましたとナレーションが入るが、そんなことは当たり前だ。白塗りの家老は最初から死んでいるのだからどうして二度死ぬことができよう。
  • 撮影監督の石原興は、アクションを撮るのがそれほど得意ではない。だが、かたく門を閉ざした阿部家の前に蝟集した捕吏の侍たちの陣笠の鈍い輝きだとかは、さすがに美しく撮る。しかし、つくづく感心したのは男たちが死へのなだれ込みを決意したのちの、阿部家の老若男女の人びとが棒立ちになっているのをパノラマのように、でろりとした色調で、もう既に彼らが亡霊であるかのように撮ったショットが、ものすごかった。石原の撮影の仕事で、心底から感嘆したのは初めてだった。もちろん美術の西岡善信と丸井一利の仕事もいい。ふと黛敏郎を想起させた長生淳の音楽もよかったと思う。
  • 「この作家を読んでみてほしい」じゃなくて「この作家にハマってほしい」と書いているやつがいて、めちゃくちゃ気持ち悪いなと思う。大きなお世話だよ。
  • 寝る。