• 『シネマの記憶装置』のいちばん後ろに収められているゴダールについての幾つかの批評文を風呂のなかで読みながら、「映画は、あらゆる瞬間において目に触れるものとしてはなかったし、また今後もわれわれの瞳にその姿をさらすことを拒み、まさしくその不可視性によってわれわれを犯し続けてゆき、だから、短くはあっても、すでに充分な質と量を誇りうるその歴史は、われわれの背後に豊かな財産として堆積された不動の山ではなく、かえって現在に注ぐ視線を盲目にする危険な光源としてしか感知しえず、見る者の精神と肉体をゆるやかにむしばみ、生への執着を徐々に風化させ、明日への意志を沮喪させるものでしかないという事実」と書いた蓮實重彦は、今もまだいるのだろうか(蓮實重彦の批評文を、ヌーヴェル・ヴァーグアメリカ映画と同一視することなく、まるで蓮實が論じた映画など一本も眼にしたことがないもののように批評することが必要なのではないか?)。
  • 西武の広告には何の趣味のよさもウイットも感じないが、「英語でクリームパイがどういう意味だか知ってるのか?!」と噴き上がっている連中にはさすがに失笑を禁じ得ない(というか、ちょっと落ち着けよと云ってやりたい)。パイ投げを知らないのだろうか? 
  • ドン・デリーロの『オメガ・ポイント』をたらたらと読み始める。1936年生まれのドン・デリーロ大江健三郎のひとつ下、長嶋茂雄やハンス・ハーケやフランク・ステラ若松孝二さいとう・たかをと同い年。
  • シャッターを押すこととアイドルを推すことは、でもやっぱり違っていて、それは遂に撮りためたデータをプリントしてしまったときに違ってくるのだろう。単なる行為の突出というのではなく、手許に、ぎょっとするような厚みの、おが屑ならぬカメラ屑のようなものとしてのプリントの束が積み重なる。このゴミのような物質をどう処理するか(展示するの?写真集つくるの?箱に入れてしまっておくの?)ということを考え始めると、やはりそれは批評のようなものになってくるだろう。しかし、これも行為の突出のようなものになる可能性はゼロではない。