- ツイッターで糞みたいなこと云ってる美術家とか漫画家にかぎって、漫画の絵が下手だったり作品がひどい。これは私のささやかな慰めである(って、先日も書いていた。とにかく、賢しげな顔で、逆張りをして悦に入っているガキが、私はほんとうに嫌いなのだ(「どうしてひとを殺しちゃいけないの?」)。「彼のいうことにも耳を傾けよう」とか「そうかもしれない」と、一瞬ずきんときているようすで、おなじ肥溜めのなかに入ってあげる善男善女たちのふしだらな感じやすさも大いに害があると思っている。肥溜めのなかから「糞を撒き散らす自由を擁護しているんです!」と喚いている輩には、マンホールの蓋で二、三発殴りつけてから、きちんと穴を閉めておくにかぎる。
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- 福島第一の原子炉のデブリの映像が流れている。原子炉のなかに飛び込んで確認するということができないので、それが硬いか柔らかいかさえ判らないという。ロボットの指先を突っ込んで、触ってみるそうだ。しかし、透明な液体にぷかぷか浮いている茶色のデブリは、どうしたって、ウンコにしかみえない。「洋式のものは水中に沈んでいるのでアルコール漬の摘出物を見るように冷静に観察し得る。(…)時としてその糞便のかたまりが他の物体の形状を思い起させ、人間の顔に見えたりもする」と、谷崎の「過酸化マンガン水の夢」を思い出したりする。お湯を沸かしてウンコをひり出す装置としての原発。
- ミヒャエル・ギーレンが亡くなった。夜中にCDの山を崩して、ストラヴィンスキーの《カンティクム・サクルム》を聴く。ギーレンは声の扱いがとてもいい。ぽろっと出てきたカーターの《ピアノ協奏曲》の録音も聴いた。合掌。
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- 午後遅くから柚子と実家に。三宮でケーキを土産に買う。いつものように祖母の分も。
- 母と妹は梅田に買物に行っていて、父と猫たちがいる。祖母はいつも寝ていたベッドに横たわっているが、しかし顔には白い布を被せられている。掛け蒲団の胸の上には、ときどき猫が蹲っていたが、きょうはドライアイスを入れた水枕が乗っていて、さらに、経帷子も拡げて被せてある。
- 顔の白い布を取ろうと思うが、顎の辺りをちょっと捲っただけで、そのままなおしてしまう。父が、顔の覆いを全部取ってくれる。久しぶりにお化粧をされていて、紅が唇をまっすぐなぞっている。最近は、いつも眠っていたので、そんなことはないのだと知っているけれど、このあと、眼を開けてもおかしくないんじゃないかと思う。
- 父と柚子と三人でケーキを食べる。父が紅茶を淹れてくれる。猫たちと遊ぶ。近所のFさんの家の長女(私よりひとつか二つ年上で、小学生のとき、集団登校のおなじ班だった。会うのは数十年ぶりだと思う)が弔問に来てくれる。やがて、母と妹も帰ってくる。明日の打ち合わせをして、帰る。柚子と三宮のモスバーガーで簡単に夕食を済ませる。帰りの電車のなかで、『なぜ、植物図鑑か』を読み終わる。たぶん、何度も引用されたであろう、「写真とは、映像とは」どのようなものであるかを説いた一節。
現実からその一部を「引用」し、それを再び現実へ挿入すること。この作業によってその限られた現実は疑問符を付された現実に変質し、それが再び現実の総体に投げ返されることによって、今度は逆に現実総体が虚構化される。このサイクルが写真家の表現である。一度、現実へ投げ返された映像は再び第二の現実として他者の「引用」に向かって開かれているのだ。
- 更地になった近所の家の敷地からは、あのふてぶてしく立派な梅の木さえどこかへ持ち去られて、ただの空き地になり、そこに不動産屋の幟が二本、突き立ててあった。
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- 日常のあれこれに紛れてじぶんの誕生日さえ忘れてしまうというのはよくあるクリシェで、そんなことあるかいと思っていたが、けさ職場へ行く道すがら、「あ、今日は誕生日だった」と思い出す。きのうは覚えていたけれど、けさは忘れていた。
- 近所の家の解体工事はすっかり進んで瓦礫も撤去され、敷地の隅には、低い背で幹をたっぷり太らせた梅の木が一本残っていて、延びた枝枝にみっしりと花がついている。立派だなあと感心する。
- 職場を出る。須田亜香里からのモバメが、誕生日のひと向けの特別なメールで、「無理したり頑張らなきゃならないときもあるだろうけれど、どんなときも、じぶんはどうしたいのか?何のために頑張っているのか?という本音を忘れないようにして、心をすり減らすことなく、じぶんを大切にしてね」というようなことが、とても親身な言葉で綴られていて、感涙する。
- 帰宅する。ふと、携帯をみると母から留守電。「わざわざ誕生日だから電話してくれたのか?」と思いながら再生すると、「アーちゃん、亡くなりました」と母の声。祖母が死んだ。