• 洗濯物を干してから仕事に。職場の近くのコンビニは、カウンターのへりに透明のビニールシートを垂らして、カネのやりとりはトレイで行うようになっていた。百均のレジ前の通路には、養生テープで印が貼ってあり、前の人と近づきすぎないようにしてある。地下のスーパーに続くエスカレータの前では、店員が門番のように立って、店内に降りる人の制限をしていた。ただの商店街のスーパーの前に行列ができるのを、はじめてみた。戦時下などという言葉は決して使いたくないが、何かがぐずぐずと崩壊しはじめているのは肌で感じる。今日の昼は串揚の店は開いていて、嬉しくて駆け込む。換気のためだろう、入口の引き戸は開けっ放してある。何かの綿毛が飛んできた。
  • 洗濯物を取り込む。柚子が帰ってきて、晩飯をつくってくれたのを食べる。転寝するが、暖房が暑すぎて眼が醒める。
  • 夜中まで起きているが、起きているだけ。

  • いつも昼飯を食いに通っている店はどちらも臨時休業している。しかたなくテイクアウトの弁当を買ってきて食べる。
  • 珍しく帰宅ラッシュの時間にかち合う。ホームに滑り込んできた快速の中の混み具合を、開いたドア越しにみて、思わずたじろいでしまう。気にしすぎだろとじぶんでも思いつつも、列車から離れ、次の普通を待つ。
  • 夕食のあと台所の洗い物をする。そうとういらいらしているのを感じる。とてもよくない。

  • すっきり晴れている。カメラを持ってきて、窓越しに写真を撮る。「しま」にカメラを向けると、たいてい顔を背ける。柚子のようにかわいらしく撮ることができない(岩合さん曰く「いい写真を撮ろうという邪念が、猫を警戒させているのだ」)。彼女の朝ごはんを用意する。ふと、避難所に猫を連れてくるなといわれたら避難なんかしない、と思う。出かけようかと思うが、出ず。柚子が帰宅してから、夜、牛乳を買いに近所へ歩いて出ただけ。桜はまだ咲いている。はやく眠る。

  • ずっと雨。じっとりとしんどい。傘を差してゴミを棄てに行くが、今日は収集車が早かったみたいで、ゴミ袋を家に持ち帰る。原稿を書くためにテキストを広げる。少しだけ本を読む。YouTubeで馴染みの音楽をぼーっと聴く。「しま」と少しだけ話す。もう夜になっている。柚子が帰宅する。そろそろテレワークでよいというふうになるかもとの由。メールを書く。維新が支持を伸ばしているらしい。じぶんでぶっ壊しておいて、ぶっ壊れてる!頑張ります!とマッチポンプも甚だしい。政治家は顔とか着ているスーツとか住んでいる家のインテリアを見て、投票に値するかどうか判断すれば、維新なんて選べなくなる。政策とか年齢とか性別とか、そんなものは二の次で選べば、もう少しマシな選択ができるはずだ。文化予算を十倍ぐらいにして、人びとが美術館に行って美術をつくづく見て、考えることに慣れれば、解決することだ。声は? 声は表象なのか、そうでないのか。声だけいいバカはいるので、それで選ぶのはやめておいたほうがいいと思う。夕食をとる。そのまま今で朝まで転寝。眼が醒めると、すぐに判るらしくて、「しま」がごはんの準備を要求して鳴く。

  • 雨。昼の休憩はファミレスでとる。テーブルは間引いてある。向かい合って坐る爺さんと婆さんがグラッパの赤ワインを呑みながら素顔を曝して大声で喋っている。そのずっと奥の席には、やはりひとつのテーブルに若い男女が坐っている。彼らはマスクをして、何も喋らず俯いて、それぞれの手の中のスマートフォンの画面を見つめたり、ときどき触ったりしている。電車でたまたま乗り合わせた他人同士のように。*1
  • 仕事の帰りに、Zoomで飲み会をやろうと友人たちを誘っておいて、その開始時刻までの間に、眠ってしまい、朝まで起きなかった。
  • たいてい一緒にいる地域猫(たぶん兄弟)二匹が、ごはんをもらっているおうちの軒下で、雨宿りをしていた。
  • 我らが宰相殿は、もしかして、ムッソリーニチャウシェスクのように吊るしてほしくて、あんな動画をあげているのだろうか?
  • 長澤均さんの「Mondo modern」から、氏の旧蔵のルイス・ボルツの図録『RULE WITHOUT EXCEPTION』が届く。冒頭にペーター・ハントケの日記『世界の重量』から「the trouble with great literature is that any asshole can identify with it.」という言葉が引いてある。「偉大な文学の問題は、どんな馬鹿もそれに共感できるということだ」。ボルツとか金村とかエヴァンスとか、偉大な写真家たちの作品を見ていると、どんどんパクっていいのだと思える。フリードランダーごっこやエグルストンごっこは、どんどんやっていいのだ(ウィノグランドごっこをやるのは難しい世の中であるので、カメラのストラップの短さを真似している)。彼らとおなじ写真を撮ることはできない。絶対にズレる。そのずれを、どんどん撮ってしっかり考えることでしか、じぶんの写真を撮ることはできないと思う。
  • ボルツは、どの土地で撮っていても、画面のなかで空を切り取る割合が、だいたい同じで、かっこいい。

*1:どっちがいいとか悪いとかではない。若者が我慢しているのに年寄りは、とか、そんなことではない。少しは弁えて静かにしろボケ爺と思ったのも事実だ。そして、実は若者ふたりは何も会話していないように見えるけど、ソーシャル・ディスタンスを守って、LINEで清く正しくお喋りしていたのでした、みたいなツイッターに無数にアップされているような、1ページの漫画はすぐにも描けるだろう。しかし、2000年代中盤から、根も葉もない「在日特権」で差別を煽ったヘイト漫画家が、2010年に出版したのは、老人だけが若者から搾取して、いい思いをしているぞという糞漫画だったのはきっちり覚えておくべきだ。差別を扇動することで生活している奴らは、今じぶんが年寄りではないということでさえ(じぶんもやがて年をとることは棚に上げて)メシのタネにするのだから。

  • 今朝はハンブルク州立歌劇場の《パルジファル》をぼーっと眺めている。このところあちこちの歌劇場が《パルジファル》をアップしていて、それをつまみ食いしている。コロナの時代の音楽としての《パルジファル》。ずっと治らない傷口から血を流し続けながら、周囲からは「役割を果たせ」と責め苛まれているアンフォルタスはもちろん第三幕の譫妄のトリスタンの継続なのだろうが、それにしても、彼は20世紀以降の藝術のアイコンとして最もふさわしい。クンドリが運んできてくれるバルザムは効かない。「おまえを傷つけた聖槍だけが、その傷を癒すことができる」のだが、濃厚接触からはじまるコロナは、それをやめて個々が己を慎み、ソーシャル・ディスタンスを取って分断されることにより癒される。しかしその分断によって人びとが得られるのは、私秘的な空間ではなく、管理しやすく紐づけされている。コロナの時代のアンフォルタスには、救済としての死すら与えられず、主体だけが残り、この私は消える。

  • 朝起きて洗濯機を回す。洗濯物を干しにベランダに出る。「しま」は私を先導して先に階段を登る。「しま」がコンクリの床の上で日向ぼっこをしている隣で、今村仁司の『アルチュセール』のイデオロギー論のところを読む。
  • 昼前に、先日あちこち回ったが店舗には、ちょうど私によいサイズの黒色のジャケットは売り切れてなかったので、ネットで注文していたものが届く。金村修の写真集『I CAN TELL』も一緒に届く。そうとう安かったので、カバーの大きな帯があるか心配だったが、この値段ならなくてもしかたがないと腹を括って、夜中に慌てて注文した。クリックしてから「こういう時期だから少しでも現金を置いておかねば」と思ったけれど、どうなるものでもない。ちゃんと帯つきが届いた。とても嬉しい。さっそく眺めているが、やはりむちゃくちゃかっこいい。私が今、カメラを買って写真をバチャバチャ撮っているのは、三上君の家で金村修の『SPIDER'S STRATEGY』をみて、その格好よさに痺れたからだと思う。そのとき同時に知った写真家は米田知子だった。
  • 夜、隣町まで出かける。帰宅してSkypeで友人たちと駄弁る。けっきょく最後は服部さんとふたりでずっと喋っている。