• 朝、部屋に積んである写真集の柱が崩れて、もう一度積んだら、一時間もしないうちにまた崩れた。
  • YouTubeに全曲がアップされているマリインスキー劇場の《影のない女》を流していたら、これまでゲルギエフの作る音楽で感心したことなどなかったのだが、第一幕の終わりのあまりの美しさにうたれたのがきっかけで、買いそびれていたオペラのBDやCDをあれこれ買ったり、買った記憶すらあやふやだったカンブルランの指揮する《モーゼとアロン》のCDを引っ張り出してきて、へッドホンで聴いている。カンブルランの《モーゼとアロン》はまるで《パルジファル》のようにふわふわと透明でとても好み。
  • まとめて買ったCDのうち、シェーンベルク弦楽四重奏曲第二番が入っていたので何となく取り寄せたリヒター・アンサンブルのCDは、奏者の吐息と弦の軋みの響きが面白くて、よく聴いている。もともと弱かったがどうしようもないくらい酒に弱くなったと思う。

  • ラストタンゴ・イン・パリ』でベルトルッチマーロン・ブランドは、マリア・シュナイダーに知らせずに、バターを用いた性交のシークェンスを撮り、彼女は深甚なダメージを負った。にもかかわらず、この映画の彼女は素晴らしい。芸術は残酷だ、という吐き気のするツイートをみた。それはベルトルッチマーロン・ブランドたちの残酷さや愚かさであり、芸術の残酷さではない。これを、芸術そのものに起因する残酷さであるかのようにずらすことで、彼らの愚劣を突きつめる面倒くささを負わず、「芸術映画」から滴る甘い汁だけを、道学者ふうの渋面で、思う存分、しゃぶり尽くすことができるようになる。貪欲な芸術の歯車に食いちぎられた哀れなミューズの悲劇を直視するためには、銀幕から眼が離せない、というわけだ。
  • そうではない。噛み締めなければならないのは、こんな下劣な撮り方でなければ、こんなに充実したシークェンスを撮ることはできないのか、と問うことであり、それは結局、技術のことだ。芸術の残酷さなど、まったくどうでもいい。あるいは、私たちの本当のことなど、映画には本当に映るのか、と問うことだ。それは映らないなら、映画の本当は私たちの本当とは別物であるのなら、シュナイダーへの暴力は、やはりまったく不必要だったということになるだろう。
  • 私は、この映画は、ベルトルッチやブランドたちの演出というものへの信頼の乏しさにもかかわらず、七〇年代ベルトルッチの傑作のひとつだと今も思っている。これからまた見ることもあるだろうし、シュナイダーの荒れ狂う四肢や、糞野郎のひとりだろうストラーロキャメラの捉えた壁の光を、そのたび美しいと思うだろう。だが、それは断じて、芸術の残酷さゆえの照り返しなどではない。彼らの技術のすばらしさゆえなのだ。

  • 「総ての黒人が暴動を良いと思っているわけではない」と書いているのをみて、当たり前だろうと思う。そんな当然のことを日々ずっと言われているようだから暴動は起きるんだろう。火事場泥棒なんか肌の色に関係なく牢屋にぶち込んだらいいと思う。しかし、その盗みの現場で警官が駆けつけて、警官らしい仕事をすることができないでいるのは、警官が、制服の権威を笠に着て、無法な殺人を犯したからだろう。そして、その人殺しのレイシストの警官は、大手メディアは極左に操られている、私が言っていること以外は全部出鱈目だと日がな一日ツイートしている、糞が頭にぱんぱんに詰まった大統領の支持者なのだという。世代の異なる黒人たちが街頭で激昂しながら議論している動画をみた。蜂起するしかないと語る四十代の男と、俺もその隊列に加わってきたが、別の方法を探らなきゃ俺たちが殺されるんだ、しかしそれが何なのかは判らないと語る三十代の男は十代の少年の肩を掴んで、このおっさんにも俺にも見つけられなかった方法を君は見つけてくれと訴える。彼の言葉はとてつもなく真摯だが、これをデモとか暴動とか良くないよねに読み替えるカポは掃いて棄てるほどいるだろう。

  • ベルリナー・アンサンブルのアーカイヴ公開で、ハイナー・ミュラーが演出した《アルトゥロ・ウイ》を見ていると、私が子供のころ、こういうものが格好いいと思っていた演劇の匂いがぷんぷんする。すっかり演劇から遠く離れてしまったが、コロナ禍のせいであちこちの劇場がウェブで過去の舞台を見られるようにしているので、そういうのをずっとつまみ食いしている。映画よりたくさん舞台(映像)を見ている。少しだけ演劇と和解できたような気持ちがある。應典院も昨日で劇場としての役割を終えたという。
  • 渡辺麻友が引退してしまったのは、やはりじわりと心が痛い。

  • 安い古本をぼつぼつと買っている。ほぼ毎日郵便受けに封筒が届いている。持っていなかった梅本洋一の映画批評だとか十年ぐらい前のホンマタカシのムックとかサラ・コフマンとか。梅本洋一はシェローやムヌシュキンたちの演劇について書かれた『視線と劇場』が、まだぱらぱらと捲っただけだが、面白い。ペーター・シュタインの『悪霊』のイタリアでの上演の記録を見ていたら、ドストエフスキーの原作が読みたくなり、江川卓の訳の文庫本を、本棚から引っ張り出してきて、三十年ぶりぐらいに読んでいる。これまでは『白痴』がいちばんだと思っていたが、『悪霊』のほうが面白いんじゃないかと、昔は退屈だった第一部(佐藤亜紀さんにインタヴュしたとき「あのステパン氏とワルワーラ夫人の「もちゃもちゃ」が好きなんだよね」とおっしゃっていた)をとても楽しみながら、読み進めている。昔の組みなので活字が小さくて、追う眼の滑りが楽で読みやすい。今の新潮文庫ドストエフスキーは活字が大きすぎて読みづらい。

  • 朝起きると、鬱々苛々していたことはどうでもいい、というか、なるようになれば別にいいやと思えるくらいになっていたので、やはり眠って脳をすっきりさせることは大事だなと、柚子が心配していってくれることには従おうと思った。朝、ゴミを棄てに行って写真を撮る。
  • 夕方まであれこれ書き物。頼まれている批評を少し進めて、あとは過去の日記を書いている。夕食は柚子が唐揚を作ってくれた。とてもおいしい。本日は家から出ず。

  • 仕事に行く。昼飯に食べた、前任者おすすめの弁当屋の唐揚弁当がとてもまずい。
  • 最近、なぜか山下達郎の初期のアルバムをずっと聴いていた。『SPACY』とか『RIDE ON TIME』とか『For You』とか『GO AHEAD!』とか。神経を昂らせない、耳慣れしているものを聴こうとしているのかと思っていたけれど、むしろ、スタジオに引きこもって地道な作業を重ねて作られた音楽を聴くことで、この引きこもり生活の意味を見出したかったんだろうかと、考える。「外へ出るのも」だめなんだけれど*1
  • 帰宅して、夕食を食べる。柚子に「しんどそうなので、とにかく早く寝たほうがいい」と云われる。そのとおりにして、すぐに眠る。途中、雨の音で眼が醒めて、窓を閉めた以外は、ずっと寝続けて、朝の六時まで眠る。