• 朝帰ってきて町内会の年に一度のドブ掃除。庭の木を伐ろうかと思うが、どうして伐ったらいいのか考えるため、家の前にじーっと立ち尽くして木を眺めるだけで終わる。
  • エレム・クリモフの『炎628』をBDで見る。物凄い。どのシークェンスの画面も音響も強烈なイマジネーションの発露で、眼も耳も引っ張られ続ける。『ロマノフ王朝の最期』でもそうだったが、写真というメディアと、過去の映像の使い方が本当にクリモフは巧い。カラックスの『ポーラX』やらタランティーノの「歴史」映画のこともぼんやり思い出すが、間違いなく本当にやばい映画。ナチの蛮行を、これでもかとヴィジュアリストの力を用いて画面に実現させながら、フッテージ映像の高速の巻き戻しだけで、独裁者のヒトラーを殺すのは是とするとして、では、生まれたばかりのヒトラーを殺すことは肯定されるのか?と問うてみせる。ぐったりする。クリモフの映画に就いて書いてみたいと思った。

  • 朝からBDでシドニー・ルメットの『狼たちの午後』を見る。こんなに奇妙で素晴らしいメロドラマだったのかと瞠目する。オペラのようだ。
  • 兵庫県立美術館で「ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術」展を見る。ダン・フレイヴィンの「タトリン」のすぐ眼の前に立つと、じぃぃぃぃっという蛍光灯の放つノイズと、肌にじわりと痛い熱を感じる。やがてぼんやりと、この音や熱こそが、ミニマリズムやコンセプチュアリズムの美術の核なのではないかと思い到る。ミニマリズムの作品には、どうしても写真で接することのほうが多いので、クールなシステムの反復的な実現にばかり意識が向いてしまうが、少なくとも今回の展示で集められたコンセプチュアルなミニマリストたちは、むしろシステムからはみ出すものを滲み出させるために、そういう表出のやり方をとったのだろう。反復の果てに搾出されるものとは、作者が生き続けることへの渇望なのではないか。河原温の絵葉書のシリーズは、ずばりそのもの「私は今生きている」だし、コンセプチュアリストたちがしばしば行う、作者が展示の現場にいなくても指示書だけで作品が生成されるというのは、作者の手の不在の肯定というクールなものではなく、作者の肉体が滅んでも、作者は生き続け作品も作られ続けるというゾンビのような目論見なのではないか。
  • ブルース・ナウマンは露悪的なほど、ミニマリズムの核にあるゾンビのような生の欲望と向き合っている。むしろ、その欲望とどうやって手を切るかを、考えているように思われる。1973年の「イエロー・ボディ」展のためにコンラート・フィッシャーと交わした手紙も展示されていたが、そこには「この部屋の中にとどまることはとても難しい。自分でもあまり長くはいられない」とあった。自分が安らぐことのできない、自分さえ追い出すためのミニマルなコンセプトで作品を作る。ナウマンがどうして重要な作家なのか、やっと判った気がした。もうブルース・ウェーバーと間違えることは決してないだろう。
  • 摩耶ランプのあたりまで写真を撮りながら歩く。何を撮っていても「盗撮や」という馬鹿は少なくないんだというのは覚えておこう。

  • 「しま」の隣で寝るというのは床でうたた寝するのと同じなので、今朝は早く眼が覚めたが、あちこち身体が痛く、ぼんやりしていたので、結局どこにも出かけず、ずっと家の中にいて、溜め込んだHDの録画を見たり消去したりしながら過ごす。
  • 乃木坂46の《Actually...》のMVの監督が黒沢清だったので買っておいたのをようやく見る。齋藤飛鳥山下美月、齋藤と中西アルノ、再び斎藤と山下のダイアローグの三つのパートを経たあとには、もう齋藤が『CURE』や『回路』の役所広司にしか見えなくなる。

  • 百貨店の化粧品売場のきつい匂いを、少し酔ってしまうのだが、それでも私は、とても好ましい香りだと思うらしいということが判った。子供の頃、百貨店で母親が買物をしているのを本を読みながら坐って待っていたのは、だいたい地下の食料品売場と一階の化粧品売場と二階を繋ぐ真っ白な階段で、化粧品売場を見下ろせる場所だった。
  • クルレンツィスのパーセルダイドーとイニーアス》の録音を聴いている。とても好きだが、HIPというよりシャリーノとかラッヘンマンなどが、みずからの音楽を作るために編み出した特殊奏法との近さを感じる。弦が跳ねる、弓が楽器のボディにぶつかる、そういう音で古典を奏すること。
  • ナタリー・スコヴロネクの『私にぴったりの世界』を読んだ。小説であり批評でもあるような小説。イディッシュ語の「シュマテス」(ぼろきれ)という言葉から紡がれるイメージが縫製され、裁断され、集積され、廃棄され、また集められ、を繰り返しながら、「少女」でもあり「サンチャ」でもある「私」とその家族のエピソードが「シュマテディヒ」に語られる。その語りは、アレクサンダー・マックイーンの服を前にして「精度と釣合いの面で完璧なシルエットが目の前にあると思った」ことも、「メイド・イン・サンティエ」の「この程度の服に惑わされた時期もあった」ことも、どちらも呑みこんでおり、読み進めるうちに、しばしば語り手の姿や目玉がくっきりと、オーダーメイドの装いを纏って現れてくる。
  • 夜中に「しま」が呼びに来る。水でもご飯でもないときがあって、傍にいてやれば静かになる。そのまま「しま」の横で眠る。

  • もしかしたらジャズも聴けるようになってきたんじゃないかと思って、古本屋で安く売っていた『Flight to Denmark』を買ってきたのだが、ジャズではなくて、たまたま『残氓』が気に入っただけらしいというのが判った。

  • 『カモンカモン』のホアキン・フェニックスなら「オペラ・ミュージック」と呼ぶであろうヴェルディの《レクイエム》をアバドウィーン・フィルで聴きながら、この演奏と録音は本当に冒頭の音楽の始まりを見事に捕まえていると思いつつ、ニック・ワプリントンの『Truth or Consequences』を膝の上に拡げて眺めている。エグルストンとかフリードランダーとかウィノグランドとか、そういうモダニズムのオールド・マスターたちの写真が、ワプリントンの写真をきっかけにして、想起されてくる。電球を、三輪車を、カウボーイを、あれやこれの写真を既に知りながら、今ここにいる自分ならどう撮るか。その応答のありさまとして、ワプリントンの写真が見えてくる。
  • 先日届いた鈴木治行のギター曲集『ナポリ湾』のCDを聴いている。シンプルな音のブロックの配置が次第につんのめり、ぎくしゃくとずれてゆくさまが、くっきりと聴こえて、とてもいい。
  • 昼をとってから蒲団の中で本を読んでいると、しばしば眠くなってきて、ページの上にはない文章を勝手に作り上げて、読んでいるときがある。それはもちろんおかしな文なので、ぎくりとする。もう一度読もうとして、今度はよく眼を開けてページの上を走査するが、当然そんな文はどこにもない、というようなことが時々起る。
  • 『知識人とは何か』を読み終えて、『ソドムとゴモラ』の続きを読んでいる。ようやく「心の間歇」を読んだ。何かが起きるとそれがいつの間にか別のことに繋がってゆくプルーストの、構造としての切れ目のなさの上に、時々起きる地震や脱臼のようなもの。