ムーンライダーズは私たちの神様だった

  • と云う時代が、私にはあった。
  • 甚大な影響を受けた日本のミュージッシャン、と云うのは私の場合、過去からやられた順番に並べると、坂本龍一鈴木慶一菊地成孔、となる。いま最も面白いのは誰か、となると、もちろん真っ先に菊地成孔に指を折るわけであるが、現在に続く私と云うものに最も影響したのは誰か、となると、やっぱり鈴木慶一かなあ、と云う気がする。
  • 今日、事務所から営業に出て、電車待ちにちょっと寄った駅構内のブックファーストで『Quick Japan』の新刊をパラパラと立ち読みした。単行本になったらちゃんと読もうと思っていた佐々木敦の連載は、今号が最終回のようで、そのタイトルにムーンライダーズの文字があった。『アマチュア・アカデミー』が取り上げられていた。発売から20周年を記念してリマスタリングされ、ライヴ音源なども収録して二枚組で再発されたらしい。もちろんメトロトロン盤は持っている。何度聴いたか判らない。だが、それから三宮に出て、VIVRE(高橋マリ子はいいねぇ)のタワレコで迷うことなくそれを買った。もう何年もライダーズは聴いていない。
  • ムーンライダーズは、1986年に『DON'T TRUST OVER THIRTY』を発表後、1991年の『最後の晩餐』まで、活動を休止する。私がライダーズを狂ったように聴いたのは、ちょうどこの『最後の晩餐』の発表のころである。学生服で足繁く通っていた梅田ロフトの上のWAVEに、坂本龍一矢野顕子高橋幸宏らの錚々たるメンバーによる「いや〜遂に再浮上ですかァ」的コメントで飾られた、その発売告知のチラシが壁に貼ってあったことをよく覚えている。当時はまだ、日本の夜空にもお金で虹が架かっていたようだ。ジャンニ・ヴェルサーチは暗殺されていなかったし、小西康陽さえもケツの青い若者扱いだったし。
  • そのころ私は、或る同人誌のサークルに所属していた。慌てて付け加えるが、同人誌と云っても、まんだらけとらのあなで売っているようなエロいものとはちょっと違う。だからと云って、好きな作家は高橋和巳!と即答するような文学青年(オヤジ?)たちが集って発行しているようなものでもない。それは、壁新聞を冊子にしたようなものだった。らくがき帳のようなものだったと云うのが最も正確だろう。サークルに所属している者たちが、勝手気儘に原稿を書いて送ってきて、それがそのまま印刷され、冊子になる。細かな文字のびっしり並んでいるページがあり、驚くほど達者なイラストがあり、けったいな旅行記があり、かんたんレシピがあり……とまあ無茶苦茶だった。サークルの中では最年少グループに属していた、なまいきなガキだった私は、和風のソフトな百合小説ばかり書いていた。和装・黒髪のナヨナヨした美女や、闇だの桜だの月だの屍体だのが叩き売りのバナナのように出てくる、バカバカしい掌篇を書いては、俺は耽美派……と悦に入っていたのである。ああ恥ずかしい。
  • そのサークルのなかで人気のあった絵描きの女性と、私は親しくして貰っていた。YMO坂本龍一が好きなんですと云うと、それらの音楽をリアルタイムで聴いていた彼女は、私にムーンライダーズのカセットテープを呉れたのである。彼女の選曲したテープの、A面の最初には「マニアの受難」が入っていた。すっかりやられた。
  • 私のムーンライダーズ熱は、1995年ごろまではまだジクジクと続いていた。何しろ、1994年にカルロス・クライバーが東京で、十八番の『ばらの騎士』を振ったとき、私は「ふーん」と思っただけだった(バカヤロウ。チケット取って行ってください・泣)。クラシック音楽はそのころ、私の関心のなかで、すっかり背景に後退していたのだ(嗚呼、大後悔。チェリビダッケもチラシを見て「どーしよーかなー」と思っただけで結局行かなかった)。しかしその激しい熱も徐々に冷め、遂に1999年の『dis-covered』、2001年の『Dire morons TRIBUNE』も、私は結局買い求めることもしなかった。
  • で、今夜は仕事が遅くなって、23時を過ぎて帰宅するとすぐに、買ってきた『アマチュア・アカデミー』をいそいそとCDプレイヤーの上に乗せ、ずっとリピートで聴いている。
  • とてもいい。