悲観しつつ絶望せず

  • 稲葉振一郎『モダンのクールダウン』を読了。
  • 青を大胆に使った装丁は、ポップでなかなかそそられる*1
  • 話が長い。議論の本筋を思わず失念するほど。これを、例えば山形浩生なら半分以下の分量で書くだろう。
  • 稲葉は「片隅の啓蒙」と云う長いシリーズ(主著?)を構想しているようで、この本はその第一巻に当たるのだが、それにしても論の運びが整理されていない。本文の中でたびたび「議論が迂回してしまいましたが」と稲葉自身も書いているので、自覚はあるのだろうが、だからと云って……。しかし、削ってしまっても良さそうな無駄の部分の中に、私にはいちばん面白い箇所が転がっていたのも事実。特に、オルテガを論じた箇所が良かった。ウーン、オルテガは、やっぱりちゃんと読まなきゃいかんなぁ。
  • 東浩紀の「動物化」論を極限化した本田透の「電波男脳内恋愛」論は、ストレスフルな「近代」なるものを葬送して「ポストモダン」状況を積極的に生きてゆこうとするものであり、それに対して、「近代」の可能性はまだ充分に生きられていないとするのが、最近の大塚英志の批評活動だと稲葉は纏める。そして稲葉は、そのふたつを踏まえ、今まさに環境化しつつある「ポストモダン」の諸相を冷静に受け止めつつ、20世紀の歴史が体現してみせたように、万人にそれを押し付けるような「近代」の達成は確かに無理だが、それでもやはり「近代」の展開を「ポストモダン」の現状の中で模索すべきではないか(だからこの本は「モダンのクールダウン」と云う表題なのだ)と述べる。
  • 稲葉は、大塚の議論に多くを拠っている。自然主義文学に代表させることができる既存の虚構とは些か異なる、アニメだの漫画だのに顕著な、如何にも絵空事の虚構の「現実」やキャラクタを、私たちは既に「第二の自然」環境として呼吸するようになっている。であるならば、自然主義文学が自然主義文学的な「現実」やキャラクタでそれらを表現したように「「人工環境」と化したサブカルチャーのガジェットを使いこなしながら、なおかつ「根源的」で「無意味」な「語りえぬもの」を表現する試み」は可能なのではないか、それが大塚の云う「まんが・アニメ的リアリズム」の核心なのだと稲葉は云う。
  • ほんのちょいと商業創作に携わっていた経験から私見を述べるならば、私は此処までの議論に異論はない。しかし以下に引用する、稲葉の「ささやかな希望」には、懐疑的だ。

虚構のキャラクターの構築とその消費は、個室での孤立した個人的な営みとしてではなく、協同の営みとしてなされるであろう、ということです。一つの同じキャラクターをめぐって、たくさんの鑑賞者の思いや妄想が交錯するその中で、人々の想像によって構築されたにすぎない、実在しない虚構のキャラクターが、にもかかわらずどの特定の個人の思惑にも欲望にも左右されない、見かけ上の自律性を、そして見かけ上の不透明性、深み、屈折、わかりにくさを獲得する可能性はないでしょうか? そのとき、そのキャラクターをめぐるファンたちの共同性とは、いったいどのようなものになっているでしょうか? おそらくは、幸か不幸か「脳内恋愛」に終始していられる局面は終わりを告げ、思いがけない幸運やストレスに開かれた「公共性」のようなものが育ちはじめると思われます。

  • うーん、そうだろうか。残念ながら稲葉の云うような「公共性」へは成育しないのではないかと私には思われる。
  • 成るほど、「公共性」が育てば「思いがけない幸運」に邂逅するかも知れないが、同時に、たぶんそれ以上のストレスに見舞われるだろう。既に私たちは、そういう面倒からは逃避しながらも、一見すると「公共性」や「思いがけない幸運」らしきものを獲得することができる「環境」、云い換えれば「公共性もどき」の中で呼吸しているのではないか? まがいものの「公共性」で満足だと、私たち自身が叫んでいるのではないか? こういう事態は、稲葉も本書の中で「テーマパーク型権力」と云う表現で、仔細に分析しているのだが。
  • 個人的には、そういう状況には、徹底的に抵抗したいと思っている。何故なら私には、サブカルチャーへの恩義があるからね。
  • では、そのためにはどうすればいいのかと云えば、これはもう、『嫌オタク流』の中原昌也が喝破していたように、ストレスやノイズを引き受けること、以外にはないだろう。だが当然のことながら、それは誰もがそのようにする「べき」だとは云えない。すると、「敢えて」ストレスやらノイズを引き受けると云う態度をみずからで具えねばならないわけで、一種のエリート(稲葉による、当を得た言葉を使うならば、「無知の知」を常識と教養して持つ「庶民」*2)主義*3 *4となる。
  • ンで、私の結論。「やっぱりオルテガを読まなければいけない」と云うことだな。
  • 夜、同僚と飲みに行くらしいU君と、三宮駅でばったり合う。

*1:http://images-jp.amazon.com/images/P/4757101805.01.LZZZZZZZ.jpg

*2:「むしろせいぜいよくて「テクノクラート」、つまりはたかだか「専門人」でしかありえない普通の人間が、自己の専門外のイッシューについては、己の限界の自覚をわきまえて他人の知恵に虚心に耳を傾ける「無知の知」、という形での「常識」=「教養」を体現した「庶民」として振る舞う」(稲葉、前掲書)

*3:「そしてこうした「庶民」は、一方では通俗的な意味での「エリート」たる精神なき専門人=無反省なテクノクラートと、そして他方ではいわゆる「大衆」という、二種類の大衆人と対決せねばならないのです。もちろん、自らの内なる大衆性とも。彼らは決して社会における「前衛」ではなく、むしろ(丸山眞男風の表現でわれながらおこがましいですが)「後衛」でしょう。」(稲葉、前掲書)

*4:稲葉が此処で云う「後衛」に結んで、オルテガに於ける「エリート」を「彼らにとって「選ばれてあること」の特権とは、他の人々よりも少なく受け取ること、他の人々よりも先に傷つくこと、他の人々よりも多くを失うこと、という「犠牲となる順序の優先権」であると読解する内田樹の論も補助線として必読。http://blog.tatsuru.com/archives/000892.php