男もすなるゼロジャンル小説といふものを

  • 新城カズマの『ライトノベル「超」入門』を読み終わる。
  • 現在は、読書が教養の増進やら人生の手引である必要(建前)がなくなり、単なる暇つぶしのひとつの手段と化している。
  • ライトノベルは中高生が主な読者であり、他にも数多の娯楽が存在する現状の中から、敢えてライトノベルをお買い上げいただくためには、彼等が喜んで読んでくれる(財布の紐を緩めさせる)ことならば、「真剣かつ謙虚に」何だってやってみせる。アニメ絵のカバーイラストや挿絵の採用がそうだったし、読み手を一発で本の世界の中に導入するために、キャラクタや世界観が「圧縮され類型化され」て「アイコン」に類するものになったのも同様の理由から。
  • 例えば登場人物なるものは「近代文学のキャラクター=何かを選択し決断する、何面やら人格やらを持った人物」から「ゲーム的世界観の中のキャラクター=(任意の状況における)所作事や決め台詞の束」に変化した。
  • そして、新城は今後の展開として、ライトノベルは「ゼロジャンル小説」へと辿り着くのではないかと述べる。
  • 「これまでのライトノベルは、なんだかんだと言いつつも、SFだったりファンタジーだったりホラーだったり、他のジャンル小説の元気のよさそうな要素・アイテム・設定などをその都度輸入してきて、面白いことをやっちゃおうという形式が主だった」のだが最近の傾向では「既存ジャンルの歴史や蓄積を直接使わなくなってる」*1。ならば「それが行き着くところまで行き着くと、けっきょく、「ふつーの良質な青春小説」になるんではないの?」と新城は云う。それが「一般小説とライトノベルの間に出来つつあった隙間を埋めてくれる」小説たる、「ゼロジャンル小説」なのだ、と。
  • 寧ろこれは、この「ゼロジャンル」路線を徹底的に模索しない限り、小説と云う形式を採るライトノベルは生き残ることが難しいと云う、制作の現場からの認識と捉えるべきかも知れない。新城自身も「そもそも活字によってフィクションが消費し続けられるかどうかもわからない」と記している。
  • カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読み始める。四〇頁あたりで、それまで目立たぬように息を潜めていた或るいやな感じが、ぞわぞわぞわっと目の前に躍りだしてくる。早くも傑作の予感。
  • 前の職場の送別会に出ていた柚子が、酔っ払って帰宅。理事長の隣の席になり、ふたりで日本酒を浴びるように呑んだのだとか。下戸の私と違って彼女は隠れ酒豪なので、酔っ払ったとは云え、しゃんと自転車に乗って帰宅するのだが。しかし「頭より身体の方がエライねぇ、車の音を聞いたら、手が勝手にブレーキをピッと掛けたものねぇ」などと恐ろしいことを云う。なぜか、スターバックスの抹茶ラテをお土産に持って帰ってきてくれた。
  • ぐだぐだとPCに向かっていると、気がつけば真夜中の四時を過ぎていて、慌てて就寝。

*1:それは云い換えれば、稲葉振一郎が『モダンのクールダウン』で述べていたように、こういうサブカルチャーの語彙や世界が既に、私たちにとって自然に親しむことのできる「環境」へと偏在化していると云うことだ。