総てはワーグナーの影で

  • ブライアン・マギーの『ワーグナーとは何か』を読み終える。その記述のスタイルは英米の哲学者による大陸哲学の優れた入門書(ジョージ・スタイナーの『ハイデガー』など)に似て、すぱっとクリアに、ワーグナーの性質を切り出してくる。
  • 例えば……ワーグナーのオペラに於いて、その管弦楽は単なる歌手の声の伴奏なのではなく、

フロイトの用語で言い換えることもできよう。すなわち、歌手の声は自我の声であり、オーケストラはイドの声である。

  • ほら、何と明快なことか。
  • 他にも、嘗ては実演に触れる機会が少なかったため、多く読まれていたが、レコードと云う複製技術の時代の到来からずっと、殆ど忘れ去られたワーグナーの芸術理論の再読や、ワーグナーが音楽はもちろん文学・絵画からディズニーランドまで、あらゆる芸術から政治の世界に至るまで与えた影響の波及の広さや、自作の演奏に於いてワーグナーが透明感や俊敏な呼吸感を非常に好んだこと*1など、小著ながら中身はギッチリと詰まっている。
  • 以下に引くのは、その巨大さのため、下手をすると「あまりにも容易にたるんだ退屈なものになってしまう」ワーグナーのオペラを、優れた演奏として実現するために必要な、指揮者の条件に就いて。

まず必要とされるのは、非常に卓越した構成力である。途方もない全体----つまりそれぞれの作品と、それぞれの幕の全体を確実に手中に収めていることだけでなく、細部をも統御できることが求められるのだ。これは細部を何ら犠牲にすることなく全体へと結び付けつつ、それ自体として魅力的に聴かせるのと同時に、全体の構造の中で機能する部分として聴かせることができる、ということである。このことが実現したとき、音楽は必要不可欠な正確さをもって流れつつも、全体がどの瞬間にも聴き手の前には絶えず現れていることになる。何気ないしぶきの一粒一粒にいたるまで独自の生命力に満ちた潮の満ち引きの上にある三本の支柱から、さらに高く聳え立つアーチを作り出す----ワーグナー作品の指揮者とはそうした建築家のようなものなのだ。(中略)ほかの作曲家の作品ではこの上ない演奏を聴かせる指揮者であっても、ワーグナーに取り掛かると物足りないものになってしまうこともある。それは有機的な統一体が彼らの理解をすり抜けていってしまうからなのだ。せいぜいのところ美しいエピソードを次々と聴かせる、ということになってしまうのである。

  • フィリップ・ジュリアンの『世紀末の夢』を読み始める。1969年に出版されたこの本には、あの「時代」の刻印が驚くほど鮮明だ。大好きな長澤均滝本誠のスタイルを想起させる。

*1:ワーグナーは、いい演奏に生命を与えるのはメインテンポではなく、数え切れないほどのテンポの微妙な「調整」であり、これらを言葉や数字で表すことはできず、演奏者から直感的に流れ出なければならないものだと、感じるに至ったのだ。ほとんど震えるようにして生きているものの数学的な意味ではなく、音楽的な意味での正しいテンポを見出す、ということが指揮という芸術全体への鍵になることを彼は理解したのだ。」