『ショウ・ザ・ブラックⅡ』を観る

  • 正午前に、義姉夫婦と姪と、義兄の実弟がやってくる。私は、彼らが来ると、スパゲティを茹でる係になるのである。
  • 昼過ぎに彼らが帰ると、散髪に行くつもりだったのだが、結局夕方までごろごろと過ごす。
  • 夜、新開地へ。商店街のエロDVD屋の軒先でリドリー・スコットの鮮烈なる傑作、動く18世紀泰西名画『デュエリスト』が1000円で売られていて即買。
  • 神戸アートビレッジセンター*1で、U君と待ち合わせて大川興業の舞台『Show The BLACKⅡ イウ コエ オト』*2を観る。
  • 暗闇の中で展開される演劇と云う発想は非常に面白いが、脚本と演出が、その可能性を殆ど引き出せていない。その所為で、「或る青春劇が演じられる舞台の照明が、単純なアクシデントで灯らず、仕方なく照明なしで演じられた」と云うレヴェルを超えられていない。
  • ただし、先程「殆ど」と書いたのは唯一、関課長(男)とその若い部下(女好き。反町隆史に似ているらしい男)の出張先での一夜を巡る一場だけが、闇の中の演劇と云う面白さの或る面を充分に展開できていたからだ。その一場が面白いのは、役者が目の前の舞台の上で動き回っている気配をリアルタイムで感じることができながらも、視覚情報は闇で一切閉ざされているため、ホモセクハラのその光景じたいは、観客席の想像力へ全面的に委ねられているからだ。
  • それゆえに、ホタルの乱舞するさまを実際に電光の明滅で表現してしまったり、最後のボクシングのシーンで照明を灯すのも大いに減点である。つまり、暗闇に浸り込んでいる観客が展開している想像力を信頼しきれていないのだ。だからこそ、平板な書き割のような効果音や音楽の使用の安易さをすら看過してしまうのではないか。視覚を奪われているからこそ、耳や肌は敏感になる。そういう面白い状態をせっかく作りだしておきながら、この舞台に於ける音や光の使い方の多くは、脚本や演出は、如何にも拙劣ではなかったか?
  • 非常に期待していた舞台だっただけに、些か残念。
  • U君とぶつくさ云いながら、ラーメンを食べようと福原の裏筋である新開地商店街を湊川公園のほうへ登ってゆくと、突然インド料理屋「ルピア」*3を発見。料金が非常に格安だったのと、お互いインド料理好きなので、さっさとラーメンを放棄する。特別、ものすごく旨い店と云うわけではないが、普通に旨くて、インド人の店員氏は愛想が良くて文句なし。マンゴーラッシーは大変おいしかった。
  • 徒歩で移動。駅前の貸ヴィデオ屋に何気なく立ち寄ると、一本200円の中古棚でグリーナウェイのこれまた傑作『建築家の腹』を見つけて狂喜する。
  • 片岡鉄哉の『核武装なき「改憲」は国を滅ぼす』を読了。彼の議論の面白さは、掃いて棄てるほど転がっている排他的ナショナリストたちの威勢が良いだけの暴言や「日本も核武装を!」と云う話ではなく、さらに先を進んで、憲法改正核武装集団的自衛権の行使を可能とする国家に日本がなるとどうなるかと云う「その後」の話を展開しているところだ。
  • 片岡は「中道、穏健、安定」を希求する民主主義者を自任しているので、核武装憲法改正もまた、あくまでそれらの恒久的な実現のための手段である。日本が今後、極端な政治的傾斜----片岡の言葉を借りるなら右に行けば「ナショナリストの猪」となり、左なら「朝日スターリニスト・天皇殺し」となる----を選択しないためのバランサーを片岡はふたつ想定していて、それが天皇の権威の再興と、日米の同盟関係をこれまでの被保護者と庇護者から双務性のものとし、強化することである。同時に、日米中の関係を安定した対等のものに建て直し、毟り取られるばかりと云う関係を清算することにも繋がると云う。
  • 米国の「核の傘」は既に破れている。イラクに軍事力を投入し過ぎて、米国は他で戦争ができなくなっている。2008年の大統領選ではヒラリー・クリントンがその座に最も近い処にいる(ウゲッ)。佐藤栄作田中角栄の時代で日本の外交は舵取りに失敗した、等々の指摘は面白く、それら総てを繋いで、喫緊なる日本の核武装こそがベターな選択であると導き出される片岡の議論は、充分な説得力を備えている。