- 日曜の朝とは思えぬくらい早く起きて、実家の近くの散髪屋へ。髪が延びて鬱陶しかったので、すっきりしてさっぱり。
- そのまま昼過ぎ、柚子と大阪駅で待ち合わせて、合唱のミニ・コンサートを南港まで聴きに行く。
- その後、地下鉄でひいひい云いながら移動し、開演ぎりぎりで劇場に飛び込み、今乗りに乗っている劇団シアターシンクタンク万化*1の再演*2『略奪王ナガマサ〜南国武将録』を観る。
- 大傑作『エバーグリーンONLINE』*3で現代を生きざる得ない私たちの個を、『ママゾンビ』*4で家族を描いた美浜源八(脚本)が今回挑んだのは、日本人そのものだった。
- そのための題材に選ばれたのは山田長政で、御存知のとおり関ヶ原が終わって食い詰め、南へ渡航しシャムの藩主にまで上り詰め、結局は土地の人びとに毒殺された男だ。実在を疑う説もあるが、呂宋助左衛門と同様、大東亜戦争時の海軍主導の南方作戦を経て、バリ島のエステやタイの少女売春などひとによってさまざまだろうが、日本人が今もずっと持っている、南への激しい憧憬を体現した人物であるのは間違いない。
- さて、この劇に登場の山田長政を始めとする当時人物たちは、考え方やら悩み事が、関ヶ原が終わったあとの日本人であると云うには、いかにもモダンである。それは殆ど『マクベス』や『リア王』などのシェイクスピア劇の登場人物たちのようである。つまり彼らは、実に私たちそのものである。
- 生麦事件を御存知だろう。つい百数十年ほど前まで、私たちはアルカイダの奴らのように、白人の超大国からのこのこやってきた連中を刀でぶった斬って殺していたのだ。満洲国を御存知だろう。私たちはたかだか七十年前には、支那の大地に、じぶんたちの列島を丸ごと収納できるような国をぶち建てていたのだ。他人の迷惑なんぞ顧みず、じぶんたちのやりたいようにやったのだ。それが周りにも最善の道だと信じながら。小悪党には事欠かないのが、日本の歴史の特徴だ。
- 役者陣も役柄にぴたっと嵌まり大健闘。河口仁は懊悩するサイボーグ戦士を感動的に演じた『この荒野の物語』を越える熱演だった。代表作になったのではないか。決して引き出しの多い役者ではないと思うけれど、やっぱりこの劇団の看板役者としてのオーラは、このひとのものなのだな。
- 高橋明文は子煩悩で権力への執着が強い王を演じ、ずば抜けた名演。例えるなら「劇団!ひとりシェイクスピア」だった。美人の大沢めぐみには、やっぱり王道のメロドラマがよく似合うのに感心。狂言廻しでもある聖痴愚を演じた島功一や、坂野多美の演じる幼い皇太子も雰囲気があってとても良かった。
- 小田益弘の演出も美浜源八の脚本同様、小手先なしのド直球。
- ただ、衣裳だけは、戦国時代の最終バスに乗りそこねた奴らの仮面で、現代の日本人を描いた舞台だったのだから、半端に時代ものめいたそれより、パンフレットにあったスーツ・ノワール調で演じたほうがずっと良かったのではないかと思う。
- さて、劇中でも描かれるが朱印船貿易が廃止され、海外に雄飛した日本人は故郷に還ることが叶わなくなる。そして山田長政の死後、日本人町は焼かれ、其処で暮らしていた日本人も散り散りになったと云う。
- 「日本は漂泊者たちの家郷である。家郷は至る処にあり、故に何処にも無い」と云う言葉から始まる福田和也の挽歌「日本人」の末尾を引いておく。
行け日本人よ。汝ら神の子孫、女衒と詐欺師の末裔よ。行ってさい果ての泥濘の底に家郷を打ち樹てよ。
求めよ日本人よ。宇宙の総てに欲情し、万象の宝を掌中にし、総ての理想と崇高を残骸にせよ。
そして、失え日本人よ。失い、失い、空の空たる虚無の中で、その温かい腸から、静かに歌を響かせろ。
- つまり美浜源八のこの舞台は、正しく「海ゆかば」だったのだ。
- ところで、今日の舞台でも昨日の大川興業の舞台でも、『ゲド戦記』のTVCMへの非常によく似た揶揄があったのだが、あのアニメには小劇団の人びとに生理的なイライラを発生させる何かがあるのだろうか?
- 次回作は、来年の3月『僕に聞こえる、彼女の声』(仮題)。岡本一広の漫画『トランスルーセント〜彼女は半透明』の舞台化だとか。「純愛物」だそーです。
- 終演後、劇団主宰氏と少し立ち話。やはり今日の観客だった愚弟と共に、三人で地下鉄で移動。
- 休養中のM女史を呼び出して、マルビルのスターバックスでお茶。其処へ移動するまでの間、私の前を柚子とM女史が腕を組んで歩いていたのだが、彼女たちの後ろ姿は、吃驚するほどよく似ていて、思わず笑ってしまうほど。
- 拙宅に続く真夜中の帰り道、柚子が冴えざえとした夜空を見上げて、「すっかり冬の空になったね」と云う。そう云えば、オリオンがくっきりと見えているのに、初めて気づいた。