『父親たちの星条旗』を観る

  • 朝起きると柚子に「さっき「ピカチューッ!」って叫んでたよ」と云われる。まったく記憶に残っていない寝言だった。しかも、私がピカチュウを呼んでいるのではなく、私がピカチュウとして叫んでいたに違いない、たぶん。
  • 柚子と『フリクリ』第三話「マルラバ」を観る。なんど観てもやっぱり傑作だなあ。
  • 柚子はコンタクトレンズの具合が悪くて眼科に行ったので、夕方から独りで三宮へ出掛ける。
  • U君と、そして久しぶりにK嬢と待ち合わせて、ミント神戸のOSシネマズ*1で、ようやくクリント・イーストウッドの『父親たちの星条旗*2を観る。傑作。
  • 画面やら音やら俳優やら編集やら、その気になれば幾らでもスペクタクルとして煽りまくることができたであろうにも関わらず、総てに於いて抑えに抑えまくった語り口に、ただただ感嘆。抑圧の力が大きいからこそ、ラストシーンの静かな開放が圧倒的に効く。
  • 呼び掛ける声や呼び掛けられる声の宛先が明瞭な戦場から、青年たちが引っ張りだされ、上官やら財務省の役人が、あっちに向けて呼び掛けろと命じる先は、顔の見えない大衆で、呼び掛ければ呼び掛けるほど、青年たちはじぶんの声の本当の宛先が判らなくなり、しまいにはじぶんの声そのものすら失ってしまう。そして、その宛先を失ったまま死の床まで歩まざるを得なかった、嘗ての青年たちの声を拾い集めるのは、青年の息子である。
  • 硫黄島星条旗は、最初に掲げられたのは報道写真で有名なあの大きな旗ではなく、小さな旗だった。あの写真は、二度目に起てられた旗のそれであり、最初に起てられた旗の決定的瞬間ではない。
  • 小さな旗が大きな旗にすり替えられ、硫黄島星条旗の掲揚と云う図像は、野球場で茶番劇として繰り返されるのみならず、銅像はおろかテーブルの上のデザートとしてまで模倣される。その上に血糊のようなストロベリーソースをぶちまけるアメリカらしいキッチュさで、文筆家としての菊地成孔の最高傑作、あの「全米ビフテキ芸術連盟」を思い出して失笑。
  • だが、最も哀しい旗は、硫黄島の英雄と云うイメージに飲み下され、遂に声を失うインディアンの青年*3が、ポケットから取り出すおもちゃの星条旗だ。彼は「あの旗のひと」と云う記号を装うしかなくなっている。
  • この映画の悲劇は、総てズレが原因で生起する。だから、原因と結果にズレのない硫黄島での戦闘のシーンは、生と死が一瞬でその場所を入れ換える残酷さや容赦のなさに満ち溢れているが、いっそ静謐で、厳かですらある。
  • ミント神戸にできたOSシネマズは、椅子も良いので好きな映画館なのだが、ちょっと文句を。
  • 本篇が終わったあとに『硫黄島からの手紙』の予告を流してくれるのは結構なのだが、エンドクレジット後の余韻もへったくれもなく、いきなり予告へ繋ぐのは勘弁してほしい。上映前に「予告が流れますよ」とあらかじめ告知しているわけだから、そんなに慌てて流さなくてもいいって!
  • 映画を終えて、ダイエースターバックスに移動。閉店まで駄弁る。
  • 帰宅後、F大兄から電話あり、嬉々として駄弁る。

*1:http://www.jollios.net/cgi-bin/pc/site/det.cgi?tsc=21080

*2:http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/

*3:そして彼は、他者には外貌からインディアン扱いされるが、その出自の部族の言葉さえ話せない。彼はその芯まで、他の何物でもなく「アメリカ人」なのだ。だから、彼は或る部族であることをじぶんであることの核に据えている他のインディアンたちのコミュニティに馴染むこともできない。