スロヴェニアの「近代ゴリラ」

  • スラヴォイ・ジジェクの『人権と国家』の、論文をすっ飛ばしてインタヴュー部分を通勤電車の中で読む怠惰な私である。
  • 三島由紀夫にシンパシーを感じると云うスラヴォイ・ジジェクは、つくづくゲリラである。
  • 彼の思想は、全面勝利することではなく、決して負けないことに全力が傾注されている。では、何のために彼は決して負けないのか? それは環境汚染やさまざまなテロリズム遺伝子工学など総てに繋がっているグローバルな資本主義の暴走が引き起こす、責任の所在が見定め難いが、しかし人類に有責である事柄(ジジェクは「客体的、体系的暴力」と呼んでいる)によって、偶然と云う針の先の一点で支えられている私たちの世界が決定的な破滅を被ることを防ぐためである。
  • そして、ジジェクが破滅から守りたいもののひとつは、具体的には次のようなものだ。

多文化主義を語るうえでの、ヨーロッパの宗教的・イデオロギー的遺産に含まれる貴重な側面があります。私にとって守り抜く甲斐のあるヨーロッパ的価値とは何か? 近代哲学の初期段階においてはすでに……デカルトの『方法序説』を読めば、彼が思想の追究を始めたきっかけが書いてあります。他の文化が滑稽に映る様子と同じように、もし自身の文化を異邦人の視点から捉えたらどうか? それで、どれほど滑稽かが認識できる。自らの文化がいかに偶然的かを実感するわけです。生まれついた文化が自然だと思わせる生来のルーツから、離脱することができるのです。間違っているかもしれませんが、私はこの体験こそがヨーロッパがもたらしたものだと考えています。そのような意味で、ヨーロッパは真の普遍性を導入した。ヨーロッパの遺産において肯定できる側面です。

  • 「私の理論は、我々はまだ理論を確立できていないというものです」と語り、「何が起きているのか知ることが課題です」と明言するジジェク。私には、何も判らないと云う場所から思索を始めるジジェクのそれは、何でも判ると云う風貌で「それは……です」と語る、ニッチ的な事象をこねくりまわしているだけの社会学筋の学徒の言説よりも、よっぽと好ましい。
  • だが、この程度の意見なら、最近では高校の教科書にすら掲載されていることだろう。では、世界を破滅から救うためには何が必要なのか? 「完全にプラグマティック」な左派であり、「左派ファシスト」とすら自称するジジェクが面白いのは此処からで、ネグリやハートの暢気な議論を蹴散らして、こう述べる。

強い規制が必要だと私は考えています。環境やテロリストの脅威を考慮に入れるならば、地球規模の規制が必要になるでしょう。規制こそが未来であり、恐れてはなりません。規制緩和は国家に抑圧された人々ではなく、企業や法人の合い言葉になっていると思います。国民が国家に怯えることはありません。左派は、国家は抑圧を意味するという反国家的な表現を放棄すべきです。一種の最低限の保護として、我々にとっては国家しかないのです。私はヘーゲル的な国家の推進者として、国家の復権を唱えます。教育や環境といった分野に関して、市場を信頼することはできません。

  • そんじょそこらのチンパン左翼やウヨくんたちにゃ吐けない台詞である。
  • しかし、ジジェクが映画の専門家であることは周知だったが、1973年版の『日本沈没』まで観ているとは……。