きょう買った新刊四冊と古書三冊

  • 苅部直丸山眞男 リベラリストの肖像』(岩波新書
  • ガブリエーレ・ダヌンツィオ『死の勝利』(訳・野上素一。岩波文庫
  • 堀晃『バビロニア・ウェーブ』(創元SF文庫)
  • 北杜夫『輝ける碧き空の下で』(上下巻。新潮社)
    • その後調べてみたら既に新潮文庫版は実質上の絶版であった。
  • 三島由紀夫『目 ある藝術断想』(講談社
    • 外函なしで五百円。しかもヴィーラント・ワーグナーの新バイロイト様式を真っ向から否定する興味深い批評が掲載されているとあっては、どうして買わないでいることができるだろう。三島は、ヴィーラントをワーグナーの「不肖の孫」であり「貧寒な演出家」と呼ぶ。その演出はワーグナーの「音楽を活かし音楽に純粋に依拠した演出だといふ見方もありうる。あいまいで真暗だからこそ、これが本当のワグナーだといふ見方もありうる。しかし私には、「ワグナーの純粋化」といふ観念そのものが、世にもばからしく思はれたのである」と書く。
    • 以下、少し長いが、この本の三島によるワーグナー論を抜き書きする。もちろん原文は正字正仮名である。三島の批評の鋭さには、私のような愚物は、ただ感服するしかない。

ワグナーとは、あらゆる純粋性に対する反措定なのだ。その点では、ワグナーは、象徴主義にとつてさへ敵である。その「綜合」の意識、「全体」の観念には、おそろしく冒涜的な力があつて、その力がもつとも崇高なものからもつとも猥褻なものまでのあらゆる価値を等しなみにし、そこに彼独特の甘美な怖ろしい毒を、甘美な病気をひろめたのであつた。「トリスタン」は、ただ単に官能的だから怖ろしいのでもなく、ただ単に形而上学的だから崇高なのでもない。そこではバスを待つ人の行列のやうにお互ひに無関心に、官能と形而上学が一小節づつ平然と隣り合つて並んでゐる。こんなグロテスクな無差別の最高原理である「綜合」や「全体」が、死神にしか似てゐないのは当然だらう。死神の鎌の無差別が、人間精神の全体性への嗜欲の象徴になる。それだから「トリスタン」は怖ろしいのである。「トリスタン」の腐敗の力に、なまなかの純粋精神などが歯が立たないのはこのためなのだ。(……)
非合理的な力の強制が、トリスタンとイゾルデの恋の決定的な要素だといふ点で、媚薬はこのオペラの主題であるばかりでなく、ワグナーの音楽そのものの主題である。ワグナー自身が媚薬であつて、この二人の死にいたる恋の原因はワグナーに他ならず、この場合のワグナーとは、すなはち、人間の理性を破壊する非合理的な力の、合目的的な使用法なのである。
ワグナーのあいまいさの本質はここに存する。それは夢が明晰であるのと同じで、明晰でさへありうるやうなものだ。あらゆるものを手段化して、一つの非合理的な力のあいまいな現前を意図するために、彼の方法は、のちにポオル・ヴァレリーがやつたやうな方法のすべて反対をやることだつた。それは一種の強烈な政治的方法であつて、悟性と感覚がもし相反するならば、決して一方を勝たせないで、その価値を等価にしてしまひ、人間精神を或る有機的な矛盾へ導いて、そのまま虚無の中へ融かし込んでしまふことであつた。彼はあいまいさを通じて、いつもこの種の、不気味な、生理学の実験室的な、露骨きはまる「有機性」を狙つてゐた。そしてそこでも彼は純粋さを軽蔑して、その有機性を、氷山みたいな大がかりな形而上学で飾り立てたのである。