- 昼、義姉がきて、皆で駄弁る。
- フリッツ・ラングの『ドクトル・マブゼ』を途中まで観る。続き物なのだ。先日の『M』と同様、とても映像が綺麗で、劇伴も良い。
- 夜、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督の第一作である『善き人のためのソナタ』*1を観に、シネ・リーブル梅田へ。ひとりの女優*2を巡る男たちの愛の物語であり、全体主義体制下に於ける「自由」の寓話であり、ひとりの男のビルドゥングス・ロマンでもある。俳優たちの演技や、語り口は節制が効いていて、とても素晴らしい出来。大変満足する。
- 茶屋町のタワーレコードに寄り、『ドリームガールズ』のサントラ盤を買って帰宅する。
- 福田和也『イデオロギーズ』を読了。
- 「いかなる高さも、いかなる光も、測るべき尺度も足場もない只中での、啓蒙として。何よりも、自分自身のための、自分の言葉のための、啓蒙。開かれれば開かれるほど、窄まっていき、照らそうとすればするほど混濁する視界のなかでの、啓蒙。世界を解明すること、世界を変えることの希望が断念された後での啓蒙書として」、この書物を福田和也は書いたと云う。もちろん、その世界とは、9・11以降の私たちが生きるこの世界のことだ。この世界では「アメリカが勝利しようが、ヨーロッパが勃興しようが、あるいは中国が、中東が台頭しようが、起きている出来事は、たった一つのことでしかありえない。テクノロジーそれ自体の自己運動、自己発達がもたらすダイナミズム」でしかない。
- 見事な手際で、モリス、マリネッティ(或いはそのコインの裏表としての「速さの時代における遅延の先駆者」であるプルースト)、ベンヤミン、ハイデガーの四人にテクノロジーを巡る主な認識を代表させて論じるところから始め、アウグスティヌス、バーク、カント、カッシーラー、ブーバー、ティリッヒ、カーライル、ボルツなど、数多の西欧哲学の古典を渉猟しながら、「自由」や「信仰」や「愛」に就いて問うてゆくのだが、それでも結論らしい結論は得られず、寧ろあらゆる道が行き止まりになっているのを確認するばかりで、やがて、福田は途方に暮れる。まるで、賢しらに判ったような顔をせず、途方に暮れることこそが、私たちが再び「何か」を立ちあげるための第一歩であるかのように。
- 嘗て、福田は『日本の家郷』に収められた同名の論考のなかで、こう書いた。
日の暮れる迄の時間を過ごす意から、「くらし」という言葉が生まれる。語が誕生し派生していく連想の中で働く、呆然と日の暮れる様を眺め、途方に暮れて止まるべき場所を探す焦りが、そのまま如何なる約束もないままこの世に在るかそけさと結びつく過程に、文芸が生まれる場所が刻まれている。
- 遂に、途方に暮れるしかない私たちの世界の相は、次のようなものだ。世界への親しみが失われた後の世界で、私たちはどのようにして「くらし」てゆけば、美しい「くらし」を得られるのか?
現代世界を「出会い系サイト」によって象徴することも可能であるし、ペンタゴンの超情報戦略に象徴させることも可能である。それは、いずれにしろ同じことなのだ。コミュニケーションの高速化によって時間を制圧することにより、空間が無意味になったことに変わりはない。もちろん、現在も空間は存在しているし、空間なしにわれわれは生きることができない。都市、田園、山麓、平原、湖水は、あるいは故郷や祖国はわれわれにとって貴重な空間であることにはかわらない。ただ、確認しておかなければならないのは、これらの空間は、時間の権力によって一度無意味にされた後に再構成された----デザインされた----場所にすぎないということだ。親しみ、懐しさ、愛情は、微分に微分を重ねた時間の濃度において、先取りされているのだから。
領域が無意味になったという事実の前で、人間たちは途方にくれるしかない。かくしてこの事実を隠蔽し、昔ながらの、住み慣れた世界を仮構するための手管が必要となる。この手管をしてボルツは「デザイン」と呼ぶ。なぜならデザインとは「人間たちが生きる意味を感じながらやっていけるための、人為的な環境」を整備する営為にほかならないからだ。
ヴィーコは、自然科学を批判し、人間にとっての真理は人間が作りだしたものだけである、として歴史を学問の王にすえた。「真なるものと作られたものは置き換えられる」というヴィーコの主張は、二十世紀後半のテクノロジーの発展により不吉な響きを帯びて再来することになった。遺伝子工学は、人間を作りだすとばぐちまで来ているし、新しい生物も作れるだろう。というよりも、実際細胞レベルではすでに進められている。物理学はすでに宇宙の発生をシミュレートしつつある。だとすれば、人間はあらゆるものを作れるがゆえに、あらゆる真理を手に入れられることになる。しかし、それは「真理」なのか。あるいは、それは人間が作ったものなのか。
われわれはすでにテクノロジーに貫徹され、覆われてしまっているのか。その余の部分がまだあるのか。この問いは、思想の、哲学の、そして思惟そのものの命運に関わっている。むしろ、こう問うべきなのかもしれない、人間がテクノロジーにたいして問いを発し、志向することは、まだ可能なのか、と。
人間を主体にして、あるいは世界を主体にしてテクノロジーを考えることは、とうに無意味になっている。テクノロジーがテクノロジー自身の生理で動いているわけだし、われわれにとっての世界とはテクノロジーそのもの、コミュニケーションの総体にほかならない。
にもかかわらず、テクノロジーをテクノロジー自体から捉えることはできない、テクノロジーの本質はテクノロジー的なものではない、というハイデガーの問いかけは生きている。もっともそこには、では誰が問うているのか、というアナクシマンドロスの問いがつきまとうのだが。
- 福田和也がなぜ、トンカツだのワインだの、街なかの食べ歩きの美食に拘泥するのか、一枚の絵や陶器を見物するためだけに、あらゆる機会を捉えて世界中を旅しているのか。
- それは、テクノロジーの「外」に出ることはもう決して叶わなくとも、其処からはみだして途方に暮れながら問うことはできる、そう云うふうに「くらし」てゆけると信じることができる瞬間が時折、訪れることもあるからなのではないか。
*2:なぜ彼女はじぶんの演技に自信が持てないのか?などの、彼女の「内面」だけは語られない。