- 昼に近くなって起き出してくると、すっかり花弁を開いていた芍薬*1。
- 昼過ぎからひとりで出掛けて、『ロダン 想像の秘密 白と黒の新しい世界』展*2を兵庫県立美術館で見る。
- 茶化さないでロダンを見るのなど初めてだ。フィリップ・ジュリアンの本の云うとおり、なるほどこれは象徴主義だ。ロダンのアトリエに置かれていた彫刻を撮った当時の写真と、ロダン自身による素描も展示されていたが、それらはどれも明瞭な輪郭を否定するようで、心霊写真のエクトプラズムにそっくりだ*3。
- 彫刻家のパトロンのひとりだったモーリス・フナイユの夫人を象った像が三点展示されていたが、そのうちの二点は、夫人の容貌を、ごく具体的に捉えて制作されている。ところが、ロダンの晩年に、大理石で作られた「フナイユ夫人、手で支えられた頭部」では、彼女の身体のディテールはすっかり溶け去り、指先を額のあたりに添えている女の仕種だけが、ぬめるような白い石の塊の表面に、ぼんやりと浮かんでいるだけになっている。「泉」のダダイズムまではあと一歩だ。
- 彫刻は光と影、そして移動する視線が完成させる。ひとつの彫刻のまわりを、目玉で嘗め回しながら、ぐるりと回る。その間、彫刻はさまざまな表情をこちらに見せる。そして、ロダンの彫刻は、或る決定的な一点を、或る瞬間を現前させない。アモルフで、常に或る瞬間の直前/直後の表現。いや、こういう云い方は正確ではないだろう、ロダンは、時間そのものを表現しようとしている。そう、まさにエクトプラズムなのだ。
- そして同時に、ジャック・ザ・リッパーの目と嗜好を、このフランスの彫刻家は備えている。「アッサンブラージュ 手と四肢」と、ブラザーズ・クエイ風のタイトルが与えられた展示室の、宝石店のようなガラスケースのなかには、型抜きされた同じ足ばかりが何本も整然と並べられていた。アンディ・ウォーホルのファクトリィよろしく大量複製の可能な工房を構えていたロダンは、紛れもなく、まもなく到来するメガ・デスの時代を既に生きていた彫刻家であった。
- ダイエーのジュンク堂に寄り、柚子に頼まれた津原泰水の『ピカルディの薔薇』を買ってから、やはり出掛けていた柚子とムジカで待ち合わせる。スコーンセットを頼み、佐藤亜紀の『ミノタウロス』を読みながら愉しむ。シチェルパートフは『山猫』のバート・ランカスターか。いやもう、つくづく面白い。
- 夜の芍薬*4。
*1:http://f.hatena.ne.jp/ama2k46/20070513131800
*2:http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_0704/main.html
*3:フィリップ・ジュリアンは『世紀末の夢』で「ロダンは心霊(エクトプラズム)の女を創出したひとりであり、新たなエロティスムの尊敬に値する予言者だった」と述べている。