江村哲二×茂木健一郎

  • U君と大阪城公園駅の改札で待ち合わせて、いずみホール*1で開催される「トランスミュージック2007 江村哲二脳科学者・茂木健一郎を迎えて」*2を聴きに出掛ける。最前列。
  • 冒頭の江村哲二茂木健一郎の対談は、『音楽を「考える」』で話していたようなことと、本日初演される「可能無限への頌歌」の自作解題と、作品が音になり、聴衆の前で披露されることへの恍惚と不安に就いて、など。
  • 休憩を挟み、演奏会は武満徹の「ノスタルジア アンドレイ・タルコフスキーの追憶に」で始まる。指揮は齋藤一郎、演奏は大阪センチュリー交響楽団。ヴァイオリン独奏は大谷玲子。武満徹は、成るほど熱心に聴いたことはないが、その映画音楽を除くと、やはりどうも肌が合わないことを再確認。
  • 続いて、江村哲二の「ハープ協奏曲」。これが瞠目の傑作だった。若い奏者だったが、篠崎和子*3のハープが非常に素晴らしかった。ハープと云っても、亜麻色の髪の乙女がポロンポロン……など云うステロタイプなイメージからは遥かに遠く、ものすごく強靭で、勢い良く跳ねまわる。ピアノの打楽器としての側面を強調して扱ったジョン・ケージの楽曲を思わせる。
  • ひたすら私の好みにぴったりの曲で、集中しながら聴いていたのだが、曲の途中で、ふと思いついて、ハープをSOS信号に、オーケストラをうねる夜の海に見立てて聴いていると、まるで「タイタニック号の沈没」のようで面白かった。
  • 江村哲二の作る音の手ざわりは、武満徹と云うよりも、寧ろ黛敏郎のそれに似ているように思った。ブルータルと、精緻なバランスで構築された繊細な美しさのふたつの響きが、ひとつの音楽のなかに絡み合っている。そのダイアローグが刺激的である*4
  • さて、そのダイアローグが大きなモチーフとなっているのが、今日のメインプログラム「可能無限への頌歌 語りとオーケストラのための」である。舞台上のオーケストラと、その地平をずっと離れた高所で演奏される独奏ヴァイオリン、そして、茂木健一郎が書いた英語詩*5を、彼自身がホールのなかをあちこち移動し、ひとつの独奏楽器として、朗読すると云うもの。扉を閉めるバタンと云う音や移動の際の足音も、楽器の奏でる音として用いられており、その効果は抜群だったと思う。しかし「ハープ協奏曲」に比べると、器楽のパートの精緻さは増しているが、ブルータルが足りないと思った。
  • なぜなら今回、この曲のブルータルは、茂木健一郎の担当した朗誦のパートに委ねられている。演奏会前の江村による解説を援用すれば、例えば神のような、超越した或る存在を象徴する独奏ヴァイオリン(音だけが天空から降ってくる)に対して、それは永遠を希求してもがく、有限な肉体を与えられている人間(ドスンドスンと云う足音)を象徴している。だが、その朗誦のパートを奏でる「楽器」が弱かった。
  • 茂木健一郎ウィリアム・バロウズばりの渋い声*6を与えられているなら兎も角、彼は英語での朗誦の専門家ではないのだから、それはやはりプロフェッショナルに任せるのが最適だったのではないか。成るほど、特に昨日、ケネス・ブラナーの『ハムレット』を見て、超絶技巧の英語を聴いているものだから、幾ら英語がからっきしの私でさえ、耳が厳しくなっていたのかも知れない。だがやっぱり、朗誦の奏者が最良ではなかったのが、誠に残念である。茂木の活躍は、作詞までに止めておくべきだった。ロマン派好みの香りが濃厚な詞は、決して悪くなかったと思うから。
  • 江村と茂木はオペラを作る計画を持っていると云う。ぜひ実現してほしいものである。
  • サイン会には並ばず、阪神百貨店の地下街で、お好み焼きと焼きそばを食べながら、U君と話をする。
  • 帰宅後、夜行バスに乗って独りで旅行に出るつもりだったのだが、どうにも憂鬱で気分が晴れず、結局、取りやめる。柚子にタロットをやってもらい、就寝。

*1:http://www.izumihall.co.jp/

*2:http://www.suntory.co.jp/news/2007/9732.html

*3:http://www.tokyo-concerts.co.jp/artist/shinozakik.html

*4:黛の没年である1997年に、江村は「シンポジオン・プランタン 黛敏郎へのオマージュ」と云う曲を書いている。未聴。「ハープ協奏曲」の作曲も同年。

*5:http://transmusic2007.blogspot.com/2006/12/ode-to-potentially-infinite.html

*6:http://www.youtube.com/watch?v=AJTIedZVIVQ