「ベルギー王立美術館展」その他

  • 国立国際美術館*1で開催中の「ベルギー王立美術館展」*2へ柚子と出掛ける。ルーベンスアンソニー・ヴァン・ダイクの描く、黒と白の装いで着飾った貴人たちの肖像画を凝視し、ブリュッセルで見た最高に軽薄な一枚"L'atelier des femmes peintres"*3を描いたフィリップ・ヴァン・ブレーと再会し、ルイ・ガレの陰鬱な「十字軍によるアンティオキアの占領」を眺め、やっと、お目当てのジャン・デルヴィルの「トリスタンとイゾルデ」と、フェルナン・クノップフの「シューマンを聴きながら」*4の前に立つ。
  • 特にデルヴィルの素描「トリスタンとイゾルデ」は、以前に柚子が大規模な「ベルギー象徴派」展で見て、とても良かったと云っていたので、ブリュッセルで見るつもりだったのだが、その頃は上野で開催されていたこの展覧会に貸し出されていて見られなかったのだ。「トリスタンとイゾルデ」の隣には、「情念の輪」と題されたやはりデルヴィルの素描が展示されている。
  • デルヴィルは、ブリュッセルで見た大作より、やはりこういう小品が最もしっくりくる。三角の構図が、とてもシンプルだが美しい「トリスタンとイゾルデ」の画面を彩るセピア色の光は、成るほど柚子が云ったとおりで、どの図版でもすくい取ることができていない。とても光の粒子の密度が濃くて、でも少しも重たくなくて、穏やかな光だ。押井守の『アヴァロン』で満ちていた光を、私はふと思い出した。
  • クノップフの「シューマンを聴きながら」は、プチブル風の室内装飾の世界が、主に白、金、濃淡さまざまな赤で織りなされている画面の真ん中に、穴が開けられている。それは、黒衣の婦人が、こちらからの視線から彼女の表情を覆い隠すかのように、額から頬にかけて差し延べている右手だ。膝のあたりに置かれた左手は、彼女自身にも思いがけない強さで、スカートをぎゅっと握り締めている。彼女の両手は、この絵の中で唯一、生の感情が剥き出しになっている場所で、緊密に構成された画面の上を漂う私の視線を、やがて引き戻して離さない。
  • レオン・スピリアールトの絵が三点、飾られていて、ブリュッセルで見た大規模な回顧展*5のことを思い出した。
  • 「様々なる祖型 杉本博司 新収蔵作品展」。一昨年、森美術館で見たときほどの衝撃*6は感じられなかったが、確か森美術館では展示されていなかったピーター・ズントーの「聖ベネディクト教会」が良かった。小学生ぐらいの女の子が、エリック・グンナール・アスプルンドの「森の礼拝堂」の展示の下に蹲って、小さなノートに鉛筆で、それを黙々と模写していたのが印象に残った。
  • コレクション展では、ベルギーのリュック・タイマンスの作品が数点、飾られていた。イエズス会をテーマにした連作のひとつらしい、「教会」と題された絵*7が素敵だった。
  • 写真は、ベルント&ヒラ・ベッヒャーの「冷却塔」やトーマス・ルフの作品などと共に、ヴォルフガング・ティルマンスの大きな写真、「フライシュヴィマー」の「33」と「79」が掛けられていて、黒の印象が強い緑色が運動した無数の軌跡を眺めていると、柚子に、こういうの好きでしょ、と云われる。
  • 他には、ジャック・レイルナーの、名刺をずらりと横に並べた「お目にかかれて光栄です」と、W・G・ゼーバルトみたいなマーク・ダイオンの「鳥類学についてのプロジェクトのためのドローイング」が面白かった。サイモン・パターソンの「おおぐま座*8は、思想史や美術史の教科書の表紙に使いたい。デュシャンは、美術館のオープニングの際に展示されていたものと同じだった。
  • 会場を出たところのベンチに置かれていたトーマス・ルフの作品集*9を眺める。作家が向ける、エロと歴史と建築への視点が、僭越ながら非常にじぶんの志向と近しいものを感じ、唸らされる。
  • 村野藤吾の師である渡辺節の「ダイビル」を再び眺めながら、堂島のロンドンティールームでお茶。
  • ジュンク堂に寄り、徒歩で堂山の「org」でたっぷりの夕食を取り、膨れた腹を抱えて帰宅。
  • 押井守の『イノセンス創作ノート』を読了。
  • 吉田秀和の『マネの肖像』を読み始める。