- 朝、自転車を漕いで隣の駅前まで行き、と或る用事を済ませようとするが、肝心の書類を忘れてきて、慌てて再び家に戻る。何とか用事を済ませ、本屋をぶらり。
- 夜、京都の某大学で就職説明会。待遇が良い職場と云うのは、現実に今の日本にも存在しているんだなぁと驚く。私が約七年勤めた会社は、そりゃあ非道いもんでしたよ。すっかり疲れて、ゴトゴトと電車に揺られて帰宅。
- 片山杜秀の『近代日本の右翼思想』を読了する。めちゃくちゃ面白かった。
- 「近代」「日本」「右翼」「思想」を縦横無尽に論じ、「日本の思想」のひとつの相を、ぞろりとひっばり出してくる。
- 右翼的な傾向へと傾斜した戦前の哲学者や歴史家たちを取り上げて、個々の思想を眺めてゆくと共に、天皇と云う「神聖ニシテ侵スヘカラス」ブラックボックスへの忠誠の許、変革を試み、挫折し、やがて現状肯定と身体の健康に向かうその奇妙な流れを追う。
- なんて云うと、大変興味深いが、アクチュアリティからは遠い論述と思われるかも知れないが然にあらず。
- 天皇が今此処にあるのだから、革命は既に、途絶えることなく常に、為されているのだと云う「中今」論を唱えた原理日本社的な論理と云うのは平成の御世でもあちこちで見受けられ、例えば内田樹などは、まさにそうだろう。
- 革命や実生活での蹉跌を経て、現状肯定と身体に回帰するさまや、三井甲之や蓑田胸喜とは違い、天皇の位置には「おじさん」が、つまり憲法九条や戦後民主主義が据えられていると考えれば、その立像の近さが判るだろう。
- なお、この本に収められている論文のベースの多くは、驚くべきことに'80年代に執筆されている。片山杜秀、恐るべし。今年刊行で、ベストワンの思想書である。
- そして、佐々木敦の『(H)EAR』を読んでいる。とても繊細な本である。ささやかだが、確かな希望をキャッチしようとしている本である。そう云う意味で、とても政治的な本でもある。それらは例えば、こんなところに現れていると思う。
「音」が「私」に「世界」を発見させるとともに、「私」を世界に繋ぎ止める。
「音楽=世界」が起動するのは、その後でも構わない。
「世界」は今も、振動している。
「コンセプチュアル・アート」と「サウンド・アート」の超えがたい差異が隠されている。「サウンド・アート」は、たとえばどれほど思弁的なものになったとしても、けっして物理的な「音=振動」と、「聞こえること」と「聴くこと」の具体性を捨て去ることはない。