諏訪敦彦『不完全なふたり』を観る。

  • 姑の病院に寄ってから、新開地に出て、神戸アートビレッジセンターで、諏訪敦彦『不完全なふたり』*1をようやく観る。
  • 男と女は夫婦である。結婚から十五年が経っている。子供はいない。ふたりである。男から別れを切り出して、女も、それを許諾したようである。
  • 映画のなかには数回、女の顔のクローズアップがある。そのたび、何かとても大きな何かがあるわけではない。しかし、とても微細な、だが決定的な、女の揺れ動きが、映し出される。そこまで近寄らなければ、女を見たことにはならない。男は、女を、まるで見ていない。
  • 男の顔のクローズアップは一度だけである。夜の街を独りで歩きながら、男の目から薄く涙が滴り落ちるさまが映される。
  • キャメラは、概ね、じっとしている。無造作な場所で、ではない。それ以外にないと云う場所から、じっと動かない。そうして切り取られた空間のなかで、満ちている光(それは暗闇を照らすと云うより、射し込むと同時に暗闇に吸い込まれるような、溶けて出てゆく光だ)が、人物の仕種が、声が、とてもとても細かく、だが一瞬も止まることなく動いているのを、凝視させる。いや寧ろ、こちらのこわばった目や耳が押し広げられ、それら微細な動きが見えてくるようになると云ったほうが正確だろう。そう云う意味では、この映画は映画であるよりも、或る種の音楽であると云うほうがしっくり来るかも知れない。
  • しかし多くの場合、この映画のキャメラはそれらの揺れ動きを、じかに捉えることはしない。画面に映し出されるのは、タクシーの窓越しであったり、壁一面や箪笥のなかの鏡に写る像や、ふたりが泊っているホテルの部屋をふたつに仕切る扉であり、そう云う具体的なモノがない場合も、キャメラは少し引いたところから、距離と云うものをあいだに挟んで、生起する事象を写す。例外が、顔の表面だけを収める、先述のクローズアップだ。
  • さらに付け加えるなら、この映画のなかでクローズアップされているものは顔のほかにもあり、それは声であり、時間のながれである。声のクローズアップとは、キャメラの位置からでは本来は聞こえないだろう人びとの話し声と、声に伴う沈黙が、われわれには聞き取れているその事態だ。そして時間のそれは、流れる映像を中断する数秒の真っ黒な画面である。それが挟まれることで、われわれは、われわれが目にしなかった時間が映画のなかで経過したことを知る。これらは云い換えれば、この映画では、マイクや録音機材、キャメラ、編集などの介在を、観客の意識から消去するようなことは行われないと云うことでもある。寧ろ、それらの介在を意識させることが、この映画の豊かさを生んでいる。特に、最後の夜と、駅のプラットフォームの場面で、それがとても活きてくる。
  • つまり、柚子を大切にしなきゃならんと、つくづく思う映画だったのである。
  • 女を演じるヴァレリア=ブルーニ・テデスキ、素晴らしい。撮影はキャロリーヌ・シャンプティエ。あのデプレシャンの『魂を救え!』やリヴェットの『彼女たちの舞台』などの撮影監督である。
  • 映画が終わってから、約束していた柚子と待ち合わせ、カラオケに行く。
  • 黒川紀章、逝去。そのメタボリズムの思想に反して、心斎橋のソニータワーは解体され、代表作の中銀カプセルタワービルも取り壊しが決まってしまっている。メタボリズムの思想には、川添登の、菊竹清訓メタボリズムの思想があるわけであるが、黒川の建築の根もとには、やはり敗戦時の「廃墟」と「青空」がある。彼にとってメタボリズムの思想とは、建築とは誕生のときからずっと、その裡に、既に廃墟を抱えている実感と、だがしかし、それでもいちど大地にぶっ刺して立ち上げた建築を廃墟にはしたくないと云う願望のふたつを、折衷したものではなかったかと、ぼんやり思ったりする。