- 昼前に我らが堂山カンタービレの面々と集まり、中津へ。MR氏お奨めのタイ・カレーの店に行くが日曜は休み。
- 少し梅田のほうへ戻って昼食を摂る。人生のプライオリティに就いて。
- それからいずみホールで、「いずみシンフォニエッタ大阪」の演奏会「20世紀アメリカ音楽の潮流」*1。
- ロビーに掲示されていた楽譜が、実に美しかったブライアン・ファーニホウの「想像の牢獄」は、演奏そのものはいっぱいいっぱいと云う感じだったが、なるほど大粒の葡萄のように、とてもみっちりと詰まった響きだった。
- コープランドの「クラリネット協奏曲」は、独奏もオケも音がまるで弾まず、非常に退屈で、どうにも抗い難く、少し眠る。
- 原田敬子の新作「触媒 25人の奏者のための」の響きは、その音の詰まりぐあいと白さの対比が私好みだった。日頃きちんと使われていない「耳」の可能性が拡げられるのが、現代音楽の面白さのひとつであると思う。ちなみに、ピアニストとコントラバスのおねえさんふたりが恰好良かった。
- ジョン・ケージの「ピアノとオーケストラのためのコンサート」は、ピアノと格闘した川島素晴が素晴らしかった。狂気の輝きすらあり。まるでクンフーの使い手のような、俊敏な彼の身体の動きこそが、ケージの音楽の自由さを如実に表わしていたと思う。特に、電マ責めとケージの邂逅は感動的であった。
- その後、カンタービレの面々と、I嬢と同じ学校のN君も含め、中崎町で飲み会。堂山カンタービレの良さは、メンバーの頑なさのなさなのだとつくづく。
- オペラの前衛演出(いわゆる「ユーロトラッシュ」でさえ)は何故許されるのか、それはヴェルディやワーグナーの音楽はどんな演出にも耐え得るだけの力を持っているからだと熱弁するうち、やっぱりじぶんは音楽がとても好きなのだと自覚する。
- 天才でなければ、音楽だけ聴いて音楽を作ることだけでは、やがて行き詰まる(息が詰まる)のであると云うこと。それは映画だって小説だって彫刻だって一緒だ。もちろん、これは、それらをみっちり聴いたり読んだり見たりすることは大前提、としての話である。
- 深夜、帰宅してから初めて、ちょっとしたことから、気づいた。N君はN...i...君なのだが、私は、ずっとN...n...君と呼び続けていたのである。彼はN...i...と云う名前に自負を持っているようなので(ミクシィでその名字の人だけが集まるコミュニティを作っている程である)、きっと、憤懣やる方ないものがあったであろうと思うのである。テーブルを挟んで、斜め向かいに座っている、初めて会うオッサンに、じぶんの名前を間違えて発話され続けることに、彼はどのような気持ちで耐えていたのだろう? 或いは、なぜ、それを決して一度も訂正しなかったのだろう? 訂正しても仕方がないと、私は、思われていたのだろうか? そうだとすれば、腹が立つ。ひとの名前を間違えておいて、腹が立つじぶんの剣呑さを、持て余す。
- そうそう、「養老サイダー」、非常に美味。