ケージはデュシャンではない。

  • 朝の十時からMR氏、I嬢、KB君と待ち合わせて(私は遅刻して)、皆でとぼとぼと中之島国立国際美術館ジョン・ケージの「ソング・ブックス」演奏会*1の整理券を取りに行き、MR氏お薦めの、中津は「スパイス飯店」まで昼食を摂りに戻る。タイカレー(チキン)をざぶざぶと掻き込み、濃くてクリーミィなチャイを啜る。どちらも非常に旨かった。
  • どんなド素人でも聴取体験は常に分析的であるはず、と云うようなことを討議し、KB君の些か頑ななアカデミズム批判を拝聴する。しかし、個人的な聴取体験を手懸りに、もちろんアカデミズムさえ利用して、じぶんの好きなもの嫌いなものの輪郭や核を掘り起こすことこそが肝心なのではないかと、オジサンは思う。
  • さて、ジョン・ケージの「ソング・ブックス」演奏会である。
  • まず述べておきたいのは、1,000円でこう云うイヴェントが開催されたことは、大いに支持するし、今後も継続されることを強く望む。
  • だが、残念ながら今回の上演は決して満足できるものではなかった。
  • 聴取の体験としても、視覚的な体験としても、とても中途半端であった。芸術や音楽とはもっと豊かで、もっと自由なものじゃないのか、と云うことを希求しているはずが、まるで自由さのない上演だった。
  • このくらいで芸術を自由へ押し開くことができるなら、例えば本邦の戦後の演劇や音楽での諸々の活動だけを取ってみても、幾らでも有効な実験は行われてきたのではないか? 或いは、それらの実験や探究は個々の成果でしかないタコツボ的なもので、結局は、時間的にも空間的にも、広く共有されたものとはなってはおらず、今後もこう云う中途半端な「前衛」が、そのたび毎に繰り返されるのか? 
  • ケージの音楽が胚胎している自由さの取り出し方を誤って、寧ろ、ものすごく不自由なものを作り出してしまったと云うふうに、強く感じた。
  • 兎に角、何か音が鳴ってりゃそれで音楽でぃ。と云うようなものでは、断じてケージの音楽はないはずなのである。要は、これがわれわれのケージの音である、と云えるような勁い音が、残念ながら本日の演奏からは聴き取り得なかった、と云うことなのだ。
  • これは、はっきりと自戒として書いておくのであるが、ケージの作品を、きちんと音楽家の作品として聴取してこなかったツケが、云い換えればケージを、その音楽そのものに向かわず、おもに、或る種のコンセプチュアル・アーティストとして遇してきた結果が、例えば本日のような演奏を、そろそろ生誕百年を迎えようとする作曲家の作品に対して、生んでしまうのではないか。いつまでも「ケージごっこ」では、さすがにマズイのではないか? それなら森山塔の「姦のメロディ」を超えられるわけないんだからさ。
  • 憤懣やるかたなく会場をあとにして、堂島の川ぞいで眺めた大きな雲の塊が、まるで石鹸のCMの泡みたいに、とてもすべすべしていて、綺麗だった。
  • 阪神百貨店の前の舗道の脇の植え込みで、素晴らしく愛らしい野良猫と邂逅。よっぽど連れて帰ろうかと思案するが、諦める。喫茶店が何処も満席で、茶屋町「NU」の「タリーズ」でようやく腰を落ち着ける。MR氏に某「30兆円産業」の複雑怪奇な裏話をあれやこれやと講義してもらい、一同、甚く感心。さらに、ジェラール・グリゼーの「音響空間」の面白さに就いて。
  • 帰宅後、柚子とキムチ鍋を食べる。美味。
  • ノーマン・メイラー、逝去。20世紀の半分が、今年は次々と終わってゆく。