自由であろうとすること。

  • 昼過ぎ、姑の病院へ。柚子が彼女の母の髪を洗う。姑の話だと、きょう、ふと思い立って、じぶんの頭髪を少し掴んで、ぐっと引っぱってみたそうだ。すると手のなかに、ごそっと髪が残って、吃驚して指を開いて、それをベッドの下にはたき落としたそうだ。抗癌剤の治療は、副作用で腸炎が発したため、今週は中断しているのだが、幸い効果は出ている。腸炎も少しおさまってきているようである。キャラメルをふた粒と、タイヤキを少し食べていた。
  • 姑が以前から、私にセーターを買ってやる(もちろん彼女が外出できるわけはないので、柚子にお金を渡して)と云うので、柚子とふたりでユニクロに。
  • 帰宅後、キムチ鍋の残りを食べる。次の日の鍋は味が濃くて旨い。
  • きのうI嬢から頂戴した、新作「フラグメント」のライヴ録音を聴く。舞踏のための音楽と云うふう。中盤から終わりにかけて、ぐぐぐぐっと耳が引っぱられる。前作と比べても、I嬢の音楽は愈々、自由になってきていると云う印象を持つ。いわゆる「音大生の音楽」と云う狭い評価のなかではなくて、ちゃんと、現代音楽の先端へ向けて勝負しようと云う気概が見られる。それはやはり、M2両氏の姿勢でもあるわけで、だから私は彼らや彼女のことが大好きなのだろうな、と思う。
  • 松平頼則黛敏郎の、どちらも「舞楽」をベースにした管弦楽を交互に聴いて遊ぶ。
  • 山崎浩太郎の『名指揮者列伝 20世紀の40人』を、ぽつぽつと読んでいるが、面白い。セルゲイ・クーセヴィツキーの----恥ずかしながら私は彼の録音を聴いたことがないのだが----演奏哲学を示す言葉が引かれていて、それがあんまり素敵だったので、そのあたりの箇所を、此処にも引いておく。

「よい音で、よく歌い、いきいきと、そしてつねにドルチェであれ!」
つねにドルチェ。(……)ただしかれの音楽には、だらしなさはない。耽溺して音楽が停滞することはないのだ。骨格がたしかで、響きに無駄な贅肉はついていない。

  • 或いは、カール・シューリヒトとマーラーを論じた箇所を。

われわれにできるのはただ、レコードを妄信しないことである。「録音されたもの」がすべてではなく、「録音されなかったもの」の存在をつねに意識すること、それしかない。「録音されなかったもの」とはかれの視覚的印象であったりその放つオーラであったり、その音響であったり、共演者のことであったり、あるいはごく単純に、曲目のことであったりする。