『潜水服は蝶の夢を見る』を見る。

  • 水曜は男女の区別なく常に千円と云う大変結構なシステムを採用しているシネカノン神戸で、ジュリアン・シュナーベルの『潜水服は蝶の夢を見る*1を観る。
  • 画面の向こうから、登場人物が、まっすぐこちらに視線を投げかけてくることは、劇映画の文法が熟れてからは、殆ど行われることがなくなった。私たちがそんな映像に見馴れているのは、AVで、フェラチオしている最中の女の子の、両の頬っぺを凹ませた顔ぐらいのものだ。
  • この映画では多くの情景が、そんなふうな主観のキャメラだ。つまり、映画のキャメラはずっと、スクリーンのこちら側にいるらしい人物の目を模している。視界のあちこちはぼんやりとしていて、しかし或る箇所は突き抜けるようにくっきりとしている。色彩や光は、その美しさも翳りも妙に誇張されていて……そう、これは私たちが夢を見ているときの映像に酷似しているのだ。
  • それは、開巻すぐ、主人公の視界に映る、花瓶に活けられた薔薇の花束の、ピントが少しボケたような、柔らかな彩りに最も顕著だ。或いは、風になぶられてはためき、捲りあがる女たちのスカート。覗く太腿の肌理。「チネチッタ」と主人公が名づける、海辺の病院の大きなベランダに満ちる光線。病室の隅に据え付けられたTVのカラー画面。レッドライトの頭光またたく磁器の聖母マリア像。
  • 撮影はヤヌス・カミンスキー。云わずと知れた、近年のスピルバーグの傑作群を支える撮影監督。
  • さらに、それらの映像さえ越えるほどの強い印象を残すのが、E、S、A、R、I、N、T、……と、アルファベットを一音一音読み上げる、さまざまな抑揚と速さの、女たちの声と、その残響。言葉と女たちに覆われた主人公の生と幸福をしるし出すことに於いて、これ以上の表現はないだろう。
  • シュナーベルは現在、映画でしかできないことを表現しようとしているのだろうし、そうであるなら、今回は、めざましい結果として、やっと実を結んだように思う。決して悪くないフィルムだった。
  • Cちゃんと会っていた柚子と「インド亭」で待ち合わせ。私と入れ替わりに帰宅するCちゃんと挨拶。私がお会いするのは私たちの結婚式以来か? 
  • すっかり腹がくちくなり、満足して店を出る。