池田亮司を感覚する。

  • ふと、飯島洋一の『グラウンド・ゼロと現代建築』を読み始める。
  • 夕方から出掛けて、伊丹のアイホールで、堂山カンタービレの諸氏と、池田亮司の『datamatics[ver.2.0]完全版』を観る/聴く。最前列のちょうど真ン中で。
  • ものすごくクリアな画面と、些かの濁りもない音楽が恐ろしい速さで、同時に分厚く或るモノとして迫ってくるのが圧巻。視覚と聴覚に情報が溢れ、おびただしく重ねられることで、あまりにも過剰であることで、画面は白くなり、音は沈黙に限りなく近づく。見えている目と見えていない目、聞こえている耳と聞こえない耳は見分けることができない。池田亮司の芸術は今、非常な洗練の方向を進んでいるようにみえる。ふと、ポール・ヴァレリーの批評文を思い起こす。心身がぶるぶると震える。例えば、画面いっぱいに飛び去ってゆく白い鳥の巨きな群れ。彼らはこの世界を脱出してゆくように見える。
  • 堂山から出て天満のほうへ抜けたすぐのところの「揚子江ラーメン」で皆で食事をしながら駄弁る。I嬢の顔がとても明るくて、輝くよう。うふふふ。阪急の駅で諸氏と別れる。
  • 帰りの電車の中で隣の席のサラリーマン四人組が喋っている。飛田新地の「ちょんの間」は十五分で一万三千円だが九条は店は少ないが同じ値段で女の子の質も殆ど変わらず三十分だそうで。パチンコと風俗と喰い物屋と子どもの話だけで、日々の憂さを晴らす人たちと云うのは本当におられるのだ。