『ノーカントリー』を観る。

  • 朝からずっと雨が降り続いている。
  • 怪奇大作戦』の「狂鬼人間」を観る。刑法三十九条を扱い、狂人を機械的に作成すると云うアイディアは面白いが、それほど出来の良い回ではなかった。映像的な驚きも殆どないし、後味もかなり悪い。過去の作品にアクセスするのを、後世の都合や政治的な文脈で禁止することに私は反対するが、そういう措置を喰らってアクセスしにくくなっている作品の総てが傑作だと云うわけでもない。
  • 飯島洋一の『グラウンド・ゼロと現代建築』所収の「エイハブの脚」を読み終え、クレア・コールブルックの『ジル・ドゥルーズ』の「映画」の章を読む。
  • 会社帰りの柚子と待ち合わせて、「ミント神戸」の映画館のレイトショウで、コーエン兄弟の『ノーカントリー*1を観る。かなりいい。柚子は、ずいぶん気に入った様子だった。この映画を含め、最近立て続けにいい映画に出ているジョシュ・ブローリンコーエン兄弟を語って、「ふたつの体にひとつの頭」と表現しているが、『ノーカントリー』は、二本の映画を一本にしたような映画だった。
  • つまり、他の登場人物たちとのひたすらなズレで徴しづけられている面妖な殺し屋との決定的な遭遇に至る人びとを描く映画と、トミー・リー・ジョーンズの演じる老いた保安官が決して「それ」と遭遇せず、現実界の噴出の如き殺人の現場を、決定的な「それ」が行われてしまった痕跡を経巡る映画を、一本に合わせたような映画だった。だから、その些か唐突なふうに見えるエンディングも、遭遇せず痕跡だけを追い掛けるもう一本の映画のエンディングとしては、少しの違和感もない。寧ろ、これしかない終わり方である。
  • しかし、殺し屋を演じるハビエル・バルテムは本当にただならぬ気配だった。彼が画面に出てきて、二言、三言ぽつぽつと呟くだけで、画面がびりびりと緊張し、こちらの背筋は強張る。
  • アンソニー・ミンゲラも逝去し、20世紀の偉大な作家のひとり、アーサー・C・クラークも逝去……。