美に就いて

  • 朝から学校。バス停でスクールバスを待つが、来ない。なかなかいい加減な学校なのだ。黙っていたら違約金を五千円徴収されるので、携帯から学校に電話を入れ、事情を説明し、キャンセル。次のコマ(きょうは二時間連続で予約していたのだ)から出席。久しぶりに車に乗る。ようやく十時間を超えたわけだが、なんとなく判ってきた。きょうは比較的焦ることなく運転することができた。
  • ところで、文フリのあとの高円寺の呑み会で、美に就いて議論になった。そのとき私はふわふわしたことしか喋ることができなかったのだが、帰阪するバスのなかで、ぽちぽちとメモを取った。それを書き留めておく。
  • 美しいものはある。
  • 美しいものとは、美を創造し続けるものだ。不断に、私たちに美を発明することを誘い続けるものが美だ。それはどういうことか。
  • 私たちが解釈することが美を産む。
  • 美は水だ、と、考えてみよ。
  • 涸れた泉からは汲めない。
  • では、どの泉から汲む水も旨いか?
  • それを決めるのは私たちだ。
  • それが美が否かを決定する基準はあるか?
  • ある。
  • それが美なるものの概念を押し拡げるものであるか否か、だ。
  • 美なるものの概念には歴史と個人のふたつのレベルがある。
  • それぞれ、美を美であると感じる、知るためのモノサシのことだ。
  • まずは前者の歴史的な美だが、或る程度の経験を積んだものたちが或る美を享受するとき、一定の美の了解が得られるのは、共通の土壌があるからだ。或るひとが啓蒙されて、それまでよさが判らなかった作品をよいと感じるようになると云うような場合も、この歴史的な美のモノサシを個人が身につけるようになったことを意味する。教育し得る美もあると云うことだ。
  • では、経験値が低いと美は感受できないのか。
  • 美とはおのれの経験を反映するものでしかないのか?
  • 美とは、私の背丈と同じ程度の貧しいものなのか?
  • そうではない。
  • 美は、経験値の低いものにも作用する。
  • そしてそれは、圧倒的な否定の感情として、私たちの前に立ち顕れる。
  • 私たちがこれまで持っていた美のモノサシを、叩き割るものとして。
  • 逆に、歴史的な、モノサシの目盛りの中に安住している美は、私たちの美の概念の姿を再確認させる。何故なら、それは、些かも私たちの美の概念を揺るがせることがなく、寧ろ強化するためだ。
  • それに対して、圧倒的に美しいものは、それまで私たちが後生大事に抱えていた美のモノサシを粉々にする。
  • 美の概念そのものを再び鍛え直すことを要求してくる。
  • だから美は、私たちの経験値を越える美は、否定的なものとして、まず私たちの意識に顕れる。
  • 経験値の高低に関わらず、それは立ち顕われる筈だ。
  • しかしここで、美のモノサシを再び作り直すか、これまでのモノサシを使い続けるかは、私たちに委ねられている。これこそが、批評の営為だ。
  • 否定的に顕れるものをそのまま否定するのでは、彼の美は其処で終わる。
  • 折角、彼の前に美が立ち顕われても、彼はそれを美と認識することがないままに終わるからだ。