『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』を観る。

  • 朝から学校に。断続クラッチ。意外に巧くできた。帰りのバスの中で、初めて他の生徒と喋る。唇がつんとしている、眼鏡の女の子。学校のシステムの悪さと若い先生の悪口に終始。近所の古書店に寄り、帰宅する。
  • 夕方、柚子から電話。会社を皆で早退けしたそうで、隣町で待ち合わせてスパゲティを食べる。少し早い夕食。
  • そのまま独りで三宮に出て、ミント神戸のレイトショウで、マイク・ニコルズの『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』を観る。
  • 冒頭、『千夜一夜物語』の挿絵みたいな、地に身を投げ出して祈りを捧げるアラブ人らしき黒い人影。やがて立ち上がってその影は、画面のこちらに正対して、肩に構えたスティンガー(云うまでもなく米国製の携行式の地対空ミサイルだ)をぶっ放す最初のショットで、この映画の含意を総て語ってしまっている。そして、トム・ハンクスの演じる遣り手の議員は、言葉を失い、映画は終わる。最近のアメリカ=映画は、イラク戦争のその後を頻りに描くが、言葉を失うのみだ。スピルバーグは『ミュンヘン』で、「一緒に飯を食おう」と誘ったが、どうして他の映画作家たちはこの地点にも立てないのだろう。そもそもマイク・ニコルズは合わないみたいで、そう云えば、私の周囲では評判のよかった『クローサー』も全然ダメなのだった。
  • この映画の最大の見所は、ギリシア系移民の息子のCIA工作員を演じるフィリップ・シーモア・ホフマンで、当代随一の批評家なのは間違いないのに、同時代の作品の批評に就いては、時折さっぱり訳が判らないときがある福田和也が、先日「週刊新潮」の連載で『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を駄作だと書いていたが、しかしその短い批評のなかで唯一納得だったのは、プレインヴュー氏を仮にフィリップ・シーモア・ホフマンが演じていたら凄かったはずだ、と云う箇所だった。