『バリー・リンドン』、万田邦敏の傑作『接吻』!

  • ガキの頃何度も観た大好きな映画を、久しぶりにキューブリックの『バリー・リンドン』を観る。何しろ昼メロの総集編のような映画なので、少しも退屈しない。やっぱり彼の映画の中では、これがいちばん好きだ。ひたすら豪奢な映像と音楽で、博打と喧嘩を描く。「美しい者も醜いものも、今は同じ、総てあの世」と云う最後の字幕の文句が、キューブリックの世界の見方をはっきり示していて、いい。そんなキューブリックもあの世に行ってしまったわけだけれど。
  • 夕方、隣町で柚子と待ち合わせてスパゲティを食べる。
  • 独りで梅田まで出て、シネ・リーブル梅田で、待ちに待った万田邦敏監督の新作『接吻』*1を観る。観終わって、スゲースゲーとしか云えなかった。小池栄子が物凄いことになっている。小池栄子は、グラビアのお仕事が主だった頃から、その身体は、とても精妙な或る一点で踏み止まることで、エロティックだったり美しかったりするバランスを作り出している感があったが(ぐらりとその点が揺れると、不気味だったりグロテスクになってしまう、と云うことだ)、この映画でその或る一点は、鋭く限界まで突き詰められている。この映画と私たちを繋ぐのは彼女であり、この映画から私たちを突き放すのもまた、小池栄子だ。今年、映画のなかでみた女性で、この小池栄子が最もすごい。何となく、古い日本映画の女優のようなふうですらある。
  • 目が合うことから総てが始まる。画面の向こうから、双眸が真っすぐこちらの双眸を目掛けて視線を突き刺してくることから、この映画の総てが始まる。
  • 視線が向こうから真っすぐ飛んでくる映画は、象徴界の衰微とこれまでの映画の終わりを指し示していると私は先日『アラザル』で原稿用紙百枚近くを掛けて書いたのだったが、もちろん『接吻』もそのように論じることもできるだろうが、そうすることに大した意味を私は見出せない。兎に角、この映画は観るべき映画だとしか云えない。万田邦敏(そして脚本の万田珠美)は、『UNLOVED』に続いて、まったく怖ろしい映画を作ったものだ。ところで、この映画に出ている俳優たちは皆、いい声をしている。
  • まるで関係のない話だが、何処かに書き留めておこうと思っていたので、此処に書き付けておく。
  • 先日、生前その姿をTV越しに見たことも声を聴いたことも記憶にない、女性アナウンサーが自殺した。事務所の社長の子供を宿したのだけれど「母の日」に堕胎させられたからだ……、フリーになったけど結局やりたいことと懸け離れた仕事しか廻ってこなかったからだ……、いやあれは自殺ではなくて他殺で、それを裏づけるのが…………、彼女の死の理由を忖度する書き込みのあれこれを、ネットのあちこちで読むうちに、すっかり私は、憂鬱に取り憑かれてしまっていたのだった。
  • そして、嘗て彼女と一緒に仕事をした年輩の「ジャーナリスト」と云う方が、どうして助けてあげられなかったのか、と、死の報に接して答えているのを読み、ああ、このひとは、ひとがひとを「助けてあげる」ことができると思っているのだなと驚いた。ご自分の癌との闘病を保険会社のCMに使って営業なさる方だから、人間への洞察なんてお持ちではないのだろうとは以前から思っていたが、これほどとは。
  • 誰かを助けてあげることなど、私たちにはできない。そんなふうに思うことは、謂わば、傲慢である。私たちにできることはせいぜい、ちょっとした親切や気遣いでしかない。そんなことすら、なかなかできることではないのだから。成るほど、ひとの或る行為が、誰かを死の淵から引っ張り戻すことはあるかも知れない。しかしそれは決して、「助けてあげた」のではない。偶然、そう云うふうな具合になっただけである。