『ルルドの森』を観て、あれこれと。

  • 昼前に柚子に起こされて朝食。
  • 新しく決まったアルバイト先に自転車で行き、レクチュアを受ける。
  • その帰路、新しい古本屋ができているのを見つけて、しかもなかなか渋い品揃えで、狂喜する。
  • 再び出掛けようとすると、雨が。何なんだ。
  • 近所のミスタードーナツで柚子とお茶を飲み、私だけで阿倍野に。
  • 天王寺駅前の歩道橋の上から、三つぐらいの男の子が、お母さんに連れられて、路面電車を眺めながら、「にぃぃぃしぃぃおぉぉかぁぁしゅぅぅみくぉだよぉぉぉぉ」と叫んでいた。にしおかさん、キャラを変えるのは止したほうがいいんじゃないでしょうか。
  • そのまま路地裏の小劇場「ロクソドンタブラック」*1に。F大兄、某劇団主宰と共に、細川博司の率いる「バンタムクラスステージ」の公演『ルルドの森』*2を見物する。
  • さて、細川の映画『ヤリタイキモチ』は、バス停から始まり、バス停で終わる映画*3だった。この映画のヒロインである殺し屋の女の子は、待ち合わせた男の子に「バスに乗るの?」と訊ねられ、もちろん「乗るよ」と答えるのだが、結局、彼女はバスに乗らない。
  • 今回の『ルルドの森』は表現のスタイルが映画ではなく演劇だが、やはり最後はバス停で、『ヤリタイキモチ』を再び変奏して繰り返すかのように、バス停で待つ女は、結局、バスには乗らない。
  • バスは、或る地点と或る地点を結び、他人同士が乗り合わせる。乗客は、道端に設けられた停留所から乗り込み、めいめいの目的地に着くと降りてゆく。そして、バスは再び、次の目的地に向けて走り出す。これを繰り返すのがバスだ。電車と同じようだが、電車はあらかじめその移動を、敷設された鉄路がガッチリと決定している。しかしバスは、道路を走るわけだから、そのルートは決まりごととして決定されているのみで、本来的には、道がある限り何処にでも行くことができるが、それを実行するとき、バスはバスとしての外見は保ったまま、バスではなくなる。バスに留まるか、バスを逸脱するか、そのふたつの間と、または、そのふたつの重なる部分に、バスの可能性はある。
  • だから細川博司は、バスの作家だ。
  • その細川は、「シアターシンクタンク万化」の美浜源八を師としていると公言する。実際に細川は「万化」の舞台をスタッフとして美浜と共にたびたび作り上げ、近作でも演出助手を経験している。美浜は主に、ファンタジックでジュブナイルな物語を舞台に乗せるが、例えば、それをライトノベルや他の表現媒体に器を移し替えてもきれいに収まるのかと云えばそうではなく、なぜなら美浜は、芝居小屋のなかでしか立ち顕われないもの、謂わば演劇固有の表現の実現に執着するからだ。
  • 取りあえず演劇なるものが、板の上に生身の人間が立ち、彼や彼女が彼や彼女とは異なる誰かや何かを演じることと、その特異な事態を了解しつつ、やはり生身の人間たちがその板を囲み、見物することが絡み合うものだとするなら、だから演劇固有の表現とは、その場で、その瞬間にしか生起しない、間主観的に空間が再編成されることだと換言してもよい。
  • どれほど凝った記録映像を眺めても、その演劇を体験したことにはならず、せいぜいその「影」を眺めることにしかならないのは、演劇では、間主観的に変容された空間を共有し体験することが極めて重視されるためだ。
  • だが今回の舞台を見る限り、細川は、美浜に顕著なような、このような演劇固有の表現への執着を殆ど持たない演出家であるようだ。それは彼が、演劇とはまったく異なる表現である映画に軸足を置く演出家だからかも知れない。
  • 特にそれがはっきりと顕われたのが、劇中に登場するTVドラマ『ルルドの森』の扱いだった。
  • その前に少し整理しておく。まず『ルルドの森』とは、私たちが見物したこの演劇----謎の猟奇連続殺人事件を追う刑事たちと、その周辺の人物たちのドラマ(a)のことであると共に、劇中に登場する同名のTVドラマ(a1)のことであり、また、そのTVドラマ『ルルドの森』(a1)は実際に起きた情痴殺人事件(a2)をモデルとして制作されたとされている。
  • 間主観的に経験されつつある劇場空間の中で、(a)と(a2)は現実に属し、(a1)は虚構の側にある。その区別を図示するかのように、(a1)は客席と地続きの舞台----(a)と(a2)の世界----からは持ち上げられ、隔絶されて、断崖のように組まれた装置の上に押し込められて、演じられる。さらに、(a1)がヴィデオの映像であることを強調するため、(a1)の役者の動きは「巻戻し」され、直前の動きと声が再現(模倣)さえされる。もちろん、役者が直前の動きを寸分の狂いなく再現することなど不可能であり、どれだけ上手に演じても、其処にはズレが生じる。だから私は、この場面はちょっと息抜きに挿入されたギャグではなく、ふたつの異なる表現----演劇と映像を往復する細川の表現の模索の試みとして受け取りたいと思う。
  • さて、劇の進行と共に繰り返し反復されることで私たちの間で共有されるに至った、安定した三つの世界は、いよいよ舞台の大詰めで崩壊する。断崖の上でのみ演じられていた(a1)が、突然、私たちの目の前の舞台の上で演じられるからだ。
  • 虚構のフレームの中に押し込められていた(a1)が、どれほど凄惨な殺人が起きていようが其処は安定した現実である(a)や(a2)の場所のど真ん中に、不意に、ぬっと襲い掛かる。場景は、云うまでもなく、バス停である。このとき、間主観的に編成されている劇場の空間が、再び攪拌され、混乱を喚起する。云い換えれば、それは演劇固有の表現が、鮮やかに溢れ出した瞬間だった。
  • ところが、細川はそれをすぐに、再び(a1)の枠の中に押し込めなおしてしまう。(a)に属する役者が出てきて、まるで火災訓練の折、むやみに張り切る小学校教師のように、「これはただのヴィデオの映像です」と註釈を垂れて廻るのだ。その後、舞台上では、(a1)よりも実は(a2)こそが(a)の連続殺人事件の原因で……と、(a1)はすっかり隅に追いやられたまま、てきぱきと謎解きを済ませて、『ルルドの森』は幕を閉じる。
  • (a1)が抉じ開けてみせた演劇なるものに固有の表現の可能性を、わざわざ片づけてする謎解きに、私はそれほど価値を見出せなかった。それは算術であり、その解は充分に、想像の可能な範囲の内側にすっぽりと収まっていたからだ。「あ、やっぱり。」と云う感想ほど、つまらないものはない。
  • それなら寧ろ、謎解きなど放逐して、(a)、(a1)、(a2)がグシャグシャに侵食し合うのを止めずに、それがやがて客席へと滲みだしてゆくのを選ぶほうがよかったのではないか。何故なら、他の表現では経験させにくい、そのような空間の変容が容易かつダイレクトに、間主観的に共有することができるのが、客席にも舞台上にも生身の人間がいて、対峙し合う、演劇なるものの最大の力だからだ。しかも細川は、それを可能にする突破口を、この舞台でいちどは手にしていたのだから。
  • それから、とてもいいと思ったことを、書き添えておく。
  • それは女優たちが皆、活き活きとしていたことだ。
  • この舞台に登場する女性のキャラクタが皆、男に都合のいい女であるのは間違いない----何しろ、女がじぶんを咀嚼して丸呑みして融合してくれて、しかも男の親友とも一緒に永遠に生き続けるのだから。唯一の例外は検屍官の女性医師。石田れんが演じるこの女医は、タフで恰好いい。抱擁や併呑ではなく、彼女だけが切り刻む女だからか?----が、だからと云って女たちが皆、書割りのようなキャラクタだったかと云えばそうはない。
  • 特に、菱見玲子と云う引退した女優の役を演じた水谷有希が、抜群によかった。他の劇団の公演でも何度か観たことがあるが、こんなにも艶のある綺麗な女優さんだったとはまるで思わなかった!
  • ところで、この舞台から、バディ・ムーヴィのスタイル、ファム・ファタルとの決定的な邂逅、衒学的な台詞----とは云え、『地獄の黙示録』でお馴染みのフレイザーがちょっと引用されるぐらいだが----などを拾い上げ、例えば押井守の『イノセンス』を想起する向きも可能だが、それはたぶん、決定的に違う。例えば、衒学的な台詞ひとつを取り上げてみても、『イノセンス』の台詞の大半は成るほど無数の引用で織り成されているが、そのハギレの数々には、押井守の手垢がベッタリと塗れている。だからそれらは彼が書き記した言葉ではないが、彼の言葉としか云いようのないものになっている。しかしこの舞台で語られる衒学的な台詞は、如何にもウィキペディアっぽいのだ。劇中でもたびたび語られるように、あくまで「お仕事」として調べたこと、と云うふうなのだ。
  • 押井守は、関係ない。
  • また、この舞台の主人公と云うべき位置にいる三島警部補は、この事件の以前に、既に壊れている存在として描かれている。壊れていない探偵役が壊れた世界を彷徨することで、結局みずからも最も壊れた存在になってしまうのがノワールの典型だが、この舞台はノワールではない。大いなる女の懐に抱かれて、安らかな眠りを貪ることは、壊れた世界と壊れたじぶんからの逃避である。
  • そう云う意味では、この舞台で最もノワールな存在だったのは、黒船警部補だが、彼の死ぬ場面は、佐藤亜紀の『ミノタウロス』の結尾みたいで、ちょっと恰好よかった。彼を演じた白木原一仁がよかったと云うべきかも知れない。
  • 細川の次回作は映画だと云う。九〇分以内でキリリと締まった、往年のフィルム・ノワールに優るとも劣らぬものを撮ってくれると信じている。
  • 劇場を出ると、小雨。F大兄、某劇団主宰、初めてお会いするおふたりの知人らと共に近所の居酒屋に。財布がスッカラカンなので一時間ほどでF大兄と店を出て、帰路に。その車中、ひたすら駄弁る。
  • 帰宅後、柚子はもう蒲団の中だったので、再び独りで素麺を茹でる。水を沸騰させ、素麺の束を放り込み、ぶわわわわっと鍋の中がいちど沸騰してきたので、それッと「差し水」をしてみたが、……どうにも柚子が茹でるようにはならない。先日よりは旨かったけれども。やっぱり素麺は難しい。

*1:http://www.thekio.co.jp/loxodonta/

*2:http://www.agentsmile.com/hosokawa/bantam/index.html

*3:実際にはバス停の後も短い後日譚じみた場面が続くのだが、映画の運動はバス停に再び回帰した時点で完全に停止していると私は考えるので、敢えてこのように書く。