のりたまをごはんにかけた。

  • ラッヘンマンの『マッチ売りの少女』をまた聴いている。ノーノの『プロメテオ』と並んで、20世紀にしか書かれ得なかった、最も美しいオペラだと思う。
  • 唐突に、ロベール・ブレッソンの『シネマトグラフ覚書』を読み始める。何と云う見事な本だろう。映画を撮るひとも作曲するひとも小説を書くひとも絵を描くひとも皆読めばいい本だ。
  • 昼過ぎ、おたおたと某大へ出掛ける。その途中、某大の近所の小さな古本屋を慌てて覗き、新書を一冊買ったら店主が、「この本一冊読んだら小説ひとつ書けるで」なんて云う。
  • 二時半から集まりますよと聞いていたのに、四時に到着するじぶんが不思議だが、と云うのも、そもそも、遅刻しようなどとはこれっぽっちも思っていないのだから。堂山カンタービレの面々とIIさん、E嬢と邂逅し、駄弁る。MR君がドミナント、トニック、コードを説明してくれるのを興味深く聴く。
  • 「音は総て音楽になる」と云うのを拡張してゆくと音楽は音とすっかり重なってしまい、音楽は成るほど消失してしまう気もするのであるが、やはり、しないと思うのである。例えばそれは、私たちの耳が、或るときには音楽を音として聴くときがあり、音を音楽として聴くときもあると云うようなことがあるのを、思い出してみればよい。それは他の云いかたをするなら、音も音楽も、私たちの耳が、つまり聴き手の存在のないところでは、どちらも存在することはできないのではないだろうか、と云うことだ。だから、誰もいない場所で、樹の枝が落ち、その根方の下生えや積もった落ち葉に当るとき、それは音ではない。音を音楽として、私たちの環境世界の中から切り取ってくるのは、私たちの耳だ。志向性とか意識であると云ってもいいかも知れない。聴き手と云うふうな呼び名で示される私たちと耳が世界のなかにある限り、音から音楽を選り分けてくるものである限り、同時に音楽は消失することはないと、思うのだ。取りあえず。
  • E嬢と別れ、皆で電車に乗り、おでんやに。あれやこれやと突付きながら、ごぼてんを一人でぱっと食べてしまい、ちょっぴり済まないことをしたなと思ったりしながら、烏龍茶を呑みながら駄弁る駄弁る。
  • 私たちの生はまず、絶望から始めるしかないと私は考えている。だが、成るほど、既にすっかり絶望しているひとに向かって、それを云うことは、確かに無意味だ。大澤真幸は『不可能性の時代』で、アガンベンに寄り添い、人間性の総てを悉く破壊された強制収容所の地獄のなかで、まだ死なずにいる「ムーゼルマン」に向かって、「「死への先駆」を媒介にした存在の覚醒を説く」グロテスクなハイデガーを夢想し批判していたが、それは確かにそうだろう。家族との折り合いが悪い、友達はいない、彼女はいない、趣味はない、仕事もない、と云うふうになったら、吉田健一の受け売りだが、じぶんの暮らしをどうにかして美しくするしかない。猫や犬を飼ってみてはどうか。ワンルームでペット飼育を禁じられているのかも知れないが、それなら殆ど啼かない兎を飼ってみるとか。音楽を聴いてみるのはどうか。映画を観てみるのはどうか。本を読んでみるのはどうか。何か外国の言葉を勉強してみるのはどうか。例え、女が、男が、君を裏切ることがあっても、君が何かを見たり聴いたりしたときに、それを美しいと感じることは、藝術は君を裏切らない。そう云うふうに、じぶんの暮らしを、取替えのきかないものに拵えてゆくことしか、私たちにできることはないのではないかと思う。
  • ところで、戦争が起きても、今の世の中の不条理をリセットなんてしてくれない。ドン・キホーテが騎士道物語の世界に憧れたように、戦争を何か特別な祝祭の場だと考えるのはそろそろ止めたほうがいい。第一次大戦塹壕を最後に、戦場の友愛は死んだ。今、世の中で割を食っている奴は、そのまま割を食うポジションにスライドするのが、私たちの現代の戦争のシステムだ。イラク戦争の折、米軍管理下のアブグレイブ収容所で起きたどうしようもない捕虜虐待事件を思い起こしてみよう。あのとき、イラク人に愚劣な虐待を加えていた連中が、米国内では、いわゆるホワイト・トラッシュと呼ばれる貧困層に属する若い男女だったのを。戦争に行けば大学に進学するためのお金が貯められる、工場でのキツい低賃金の仕事から逃れられると思って、イラクくんだりまで行き、結局はみずからも、見世物のように法廷の場に引きずり出されたわけだ。
  • 確かに、フランス革命以降の近代的な軍隊とは平等主義を原則としているが、結局は、平時の世の中が横滑りに反映されることを、逆説的な例で見てみよう。苅部直の『丸山眞男』から引いてみる。「東京帝大の教授・助教授が徴兵されることは珍しく、まして二等兵の例はほかにない。おそらくは思想犯としての逮捕歴を警戒した、一種の懲罰であった。大学卒業者には、召集後でも幹部候補生に志願すれば、将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではないことを明らかにしたい」と、あえてそれを選ばず、丸山は二等兵のまま、所属部隊ごと朝鮮の平壌に送られた」のであり、また「「最も意地の悪い」しうちを加えてきたのは、陸軍兵志願所で徹底した「皇民化」教育を受けて入営した、朝鮮人一等兵だったと丸山は回想している。」
  • 丸山の朝鮮での軍隊生活は、病気に罹り入院したため二箇月で終わるが、その後、彼は再び召集される。今度も、やはり二等兵(のちに一等兵に昇進する)だが、「陸軍船舶司令部」の「参謀部情報班で船舶情報と国際情報を収集する仕事」だった。軍隊での生活を振り返り、「一種の二重人格みたいな生活をしていた」、「自分のなかにある浅ましいもの、いやらしいものをいろんな形でマザマザと実感した」とのちに回想する丸山以上に、もしかしたら、忠良なる大日本帝国の臣民として苛烈な愛国心を持っていたとしても、大学を出ていない「朝鮮人一等兵」が、その任に当てられることはなかったのではないか?
  • 各自がじぶんの暮らしを美しくすることは、簡単なことではない。それは酷く骨の折れることかも知れない。しかし、それしかない。なぜなら私たちを取り巻く世の中は、「マクドナルドの椅子」のように組織されつつあるからだ。誰かから露骨に、「さっさと出て行ってください」とは云われない。しかし、その場所に置いてある椅子は座り心地が悪く、到底、長い時間ゆったりと其処に留まることはできないようになっている。具体的な敵など見えないし、寧ろ誰も敵ではないのに、常に「敵地」が遍在していて、そのなかに放り込まれているのが私たちの今の世の中かも知れない。
  • だから、居心地のいい椅子を見つけること。もちろん、座布団でも構わない。世の中への抵抗は、そう云うくだらないことから始めるしかない。
  • ……と云うようなことを喋ったような喋らなかったような、気づくと河岸が変わっていて、三ツ矢サイダーの1.5リットルのペットボトルは殆ど私独りで飲み尽くしてしまっていて、しかも「チョコモナカジャンボ」さえ食べ終えている。綺麗な猫二匹を撫でる。柚子が羨ましがるだろうと思う。