押井守『攻殻機動隊2.0』を観る。

  • 早く書き終えなきゃならないのだけど書き終わらないのは何故かと云えば、書いているうちに、コレを批判するつもりだったのだけれど、コレぐらいのことは判って作っているのかな、じゃあわざわざ書かなくてもいいか、と云うような気持ちになるからで、しかしコレが判っていても実際の作品に結実していないなら、やっぱりそれはコレが判っていないと批判するべきで……と堂々めぐりしているうちに時間が経ち、眠くなるのである。夏は本当にダメ。
  • 夕方から難波に出て、ちょっと古本屋を巡り、押井守の『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊2.0』*1を観る。「なんばパークス」が関西では唯一の上映館であるため、此処まで出てきたのだが、よく考えたら「なんばパークス」自体、訪れるのは初めて。うねうねとした移動スペースの作りが面白い。緑がもっと獰猛に、勝手気儘に生育してビルのあちこちを覆うようになれば、さらによくなるだろう。廃墟のなかのショッピング・モール。。。。。
  • もう十年以上前のオリジナル版から、今回の『2.0』では、都市の建築様式、世界に満ちる光線、登場人物たちのテクスチャ、そして幾つかのヴィークルを、この続編に当たる『イノセンス』仕様に変えようとしているのだが、今述べた要素に、一本の映画としての統一感の多くを依存するアニメーションの場合、それらを変更するなら、結局、映画を丸ごと作り直さなければならない。だからせめて、音を総て作り直すことで、すっかり視覚的には解体されてしまった映画を、聴覚的にグルーピングさせることで、統一感を与えようとしたのだろう。
  • だが、私たちは映画を観るとき、それをバラバラの映像の連続ではなく、一本の映画として観るためのグルーピングの機能の多くを、耳にではなく、目に負っているのだ。そして、私たちの目は耳がそうである以上に、保守的だ。
  • 押井守が現在最も先端的な映画作家のひとりであることは論を俟たないが、それは決して、彼が先端的な技術を使用する作家だからではない。映画の原理に徹底して忠実であると云うことに於いてだ。
  • 「それが可能であればどんな技術でも実現せずにはいられない。人間の本能みたいなものよ」とは、この劇中に登場する台詞だが、そうであるにも関わらず、『スカイ・クロラ』の次の映画の準備のためか、押井守は映画の原理ではなく、こちらの技術の原理を優先して、この『2.0』をリニューアルしている。それじゃあ、映画としてダメになるのは当然なのだ。
  • それから、何なんだパンフレットが1500円とは!? 復刻版だとかで、最初の公開時のパンフと、今回のパンフが一冊の抱き合わせになっている。最新のインタヴューも載っていたが大した分量ではなかったので、アホらしくて買わなかった。最初の公開のときに観て、パンフもちゃんと買っているものもこうしているのだから、キチンと分けてよ(怒)。