人生。

  • 昨日から、朝から夕方まで、工場で働いている。ラインに張り付いて、と云うのではなく、事務所のなかをうろうろしては、パソコンをポチポチと叩く、作業である。私の他にもうひとりが派遣されていて、彼は、58歳の独身の男性である。
  • 彼は昨日から、来月の初旬にはあちらでこんな派遣の仕事がある、中旬にはこちらで、これこれの給金の仕事がある、と、そんな話ばかりを私にする。または、これまでに彼が派遣から紹介されて行った仕事のあれこれ。彼の住居から電車で一時間半ほど離れたところで、「いい仕事」があったのだが、それは朝の五時からだったので、前の晩の終電で家を出て、その会社の近くのカラオケで眠り、その仕事を得た、と云うような話を、ちょっとドモリながら、してくれるのだ。彼は、彼の耳に届く最小限に絞ったヴォリュームの声で常に喋る。
  • 彼は、昼食の折、そして、工場を出て駅へ向かう途路で、隙あらば、と云うふうなぐあいに、私にジュースやお茶を奢ろうとする。あまりにたびたびなので、こちらがずいぶん強い調子で、結構ですからと云っても、自販機で続けざまに二本買っては、押しつけてくる。貰ってもらわないと困るんですから、と云って。同じ給料を貰っていて、58歳で、独りで暮らしている彼から、たったペットボトル一本のお茶を奢られるだけでも、こちらはじっとりと気が滅入るのだ。そしてそれはたぶん、私がうっすらと、彼のことを馬鹿にしているからだと思う。
  • 他人から馬鹿にされることに馴れさせられているひとは、まったく怖ろしいぐらい、他人から馬鹿にされていることを触知するのに敏感である。私のような「カッテボォシ」----子供の頃、祖母からよく云われた。「勝手法師」、だろう。わがまま気ままばかりしているものの意か----でさえ、それを知っている。だから私は、彼が私から、静かに軽侮されていることをきっと勘づいているに違いないと、腹の底のほうでちくちく考えているのだ。
  • 彼は、よく見ないと判らないくらいだが、しかしいちど気づいてしまうとあからさまに、びっこをひいている。並んで歩いていると何度か、左右に振り子のように揺れている彼の肩が、私のほうに向かってきて、ドシンと、ぶつかったことがある。もちろん私はそれを、わざとだ、と思っているのだ。
  • 彼は、学校を出てすぐ、或る訪問販売の営業の職に就き、しばらくしてそれを辞めてからはずっと、職を転々としているそうだ。職場は、最も長く続いてひとつのところに三年。みずから起業して、結局、潰してしまったこともあると云う。何かの営業をしていたのだけは判ったけれど、私が、しつこく訊ねても、彼は決して、どんな仕事をみずから営んでいたのか、教えてくれなかった。「云いたくないンですぅ。」
  • 彼は、私に馬鹿にされているのをじりじりと感じながら、私を馬鹿にしている。おまえは俺を惨めなオッサンだと笑っているのだろうけれど、おまえのこれからだって、少しも、これっぽちだって希望なんかないんだぞ、と、哄笑しているのだ。
  • 夜、帰宅後に洗濯機を廻したのだが、そのままにしていて、慌てて真夜中にベランダに出て、干す。壁か網戸にでもへばりついていたのか、いきなり蝉がジジジジジと鳴きながら、サンダルの爪先に襲い掛かってくる。えい、と押し返しても、今度はもう片方の足に、すぐに飛びついてくる。しばらくすると、おとなしくなり、コンクリートの床の上に、肩を怒らせてじっとしていた。眠ったのだろうか? 年寄りの多いまわりの家々も、すっかり夜の底で静まり返っている。