本若⇔ケービーズ『かわうそくよう』をみる。

  • ……しきらんのぉ。と、劇場を出て呟く。
  • 「今日舞台上にあるのは、皆さんの生活に溢れている【日常】です」と、岡野真大は書いている。
  • しかし、《にちじょう》は、こんなにすっきりとしたかたちをしていない。
  • 《にちじょう》は、始まりも終わりもなく、曖昧模糊としていて、切り取り得ない。
  • 川の流れに両掌を突っ込んで水を掬い取るようにして−−云うまでもなくそれはもう川ではない−−、《にちじょう》から《日常》を仮構することで、私たちは辛うじて《日常》を生き始めることができる。ひとが《世界》に対して恐怖したり発狂したりする殆どの理由は、その操作ができなくなったときのことだ。だが、その《日常》でさえ、きょうの舞台の上に乗せられた「【日常】」に比べると、ものすごく未整理でグチャグチャしたもので、例えばそれは私たちの会話の大半が、私たちがすごく有意味な対話を行っていると実感していたとしても、実際に録音して聴きなおしてみると、その大半が意味を有する文としてはずいぶん曖昧だったり尻切れトンボだったり同じことの繰り返しだったり相手の発言とまったく関係のない言葉だったり、さらには、無意味な呻き声みたいなもので織り成されていることが判るだろう。《にちじょう》を《日常》にすげ替えるとき、そしてその実際に暮らしている《日常》を頭で理解するとき、私たちはそれぞれ、おびただしいノイズを切り棄てている。
  • だから、劇場に於いて舞台上に【日常】を顕現させるためには、ノイズの混沌である《にちじょう》の地平にまで立ち返り、其処から【日常】を発明する手続きをまず徹底して行わなければならない筈だ。発見ではない。発明である。つまり、演者も観客も《日常》を生きているからと云って、劇場の外に存在する何ものも当てにしてはいけない。あなたたちも《日常》を生きてるんだから此処での【日常】も判るでしょ?などと云うのは怠惰でしかない。舞台に【日常】を持ち込みたいなら、私たちの暮らしと少しの共通点も持たない宇宙人が、私たちの《にちじょう》を観察し、それを彼らのフレームで《日常》に再構築してみせるのと同じ手つきで、劇場のなかに【日常】を発明しなおさなければならない。それをしないで、劇場の外の《日常》を、舞台の上の【日常】へ無批判に流用しようとするなら、其処に顕われるものは、出来損ないの《日常》の紛い物か、そうでなければ、演劇臭を取り除こうとして、どうしようもなく演技の輪郭ばかりがマッキー極太でグリグリと強調された役者の名演技大パレードが退屈に並ぶことになるだろう。
  • さて、演劇には、岡野が語る通りで、「主人公が苦悩を語ったり、狂言回しが状況の解説をしてくれたり、叫んだり、踊ったり、闘ったり」するような物語や筋立ては、決して必要ではない。例えば小説のことを考えてみよう。小説には、老いた夫婦がもそもそと日々のくらしを暮らしているだけの、『かわうそくよう』以上に何も起こらないものだって幾らでもあるわけで、それらを読むことはひどく退屈かと云えば退屈なものもあるけれど、驚くほど面白いものもあり、では、それは際立っているのかと云えば、文体である。文体とは、話があちこちへ動くことではなくて、文章そのものの動きのことである。そして、演劇に於いて小説の文体にあたるものは何だろうかと考えると、それはやはり上演の空間と、そのなかのにある身体と、発声を含めた音の関係性の扱いになるのだろう。そして、この『かわうそくよう』の持っている演劇的な文体が、【日常】を劇場に召還するために有効に機能していたかと云えば、些か心許なかったと云わざるを得ない。《にちじょう》に降りることもできず、劇場の外から延びてきている《日常》や、「皆さんが何となくイメージされるであろう「お芝居らしいこと」」を切断することもできず、どっちつかずに終始したと思うのである。このどっちつかずの感じは、携帯電話から洩れ聞こえてくる声の演出に、最も端的であったと思う。
  • だが、『かわうそくよう』は、その試みが全く失敗した芝居ではなかった。飼い犬の頸につけられたリードのように劇場の外から延びてくる《日常》と結託するのでなく、《にちじょう》からじかに引き出されて、演劇と劇場を経由して発明された【日常】が、不意に立ち顕われた瞬間が確かに在ったからだ。それは、舞台上の人物たちが無言で柔軟体操を始めたときだ。私たちは他者をみるとき、必ず何らかの意味づけをして、云い換えればノイズを取り除いてから、それをみる。しかし、このとき舞台の上にいたのは、或る名前を持った俳優たちではなく、或る演劇の登場人物たちではなく、そのような意味づけを保留された、殆ど《にちじょう》そのものであるような人間の群れだった。これは偶然ではなく、役者たちの身体と岡野の演出が【日常】を生み出した結果だったろう。しかし残念だったのは、それが一時間半の演劇を通して、持続し得なかったことである。
  • ところで、本若の上島洋子と云う女優のおへそのかたちは、とても綺麗だった。