『病的船団08』をみる

  • 開演前に、アンケートへの協力を要請された。
  • そのアンケートと云うのは、この演劇をみる前と後で、精神障害者に就いて書かれた、まったく同じ短い文章を読み、同じ設問に回答し、演劇をみたことで変化があったかなかったかをチェックする、と云うものだった。
  • 私は回答せず、そのまま他の演劇のチラシと一緒に鞄のなかにしまい込んだ。
  • この演劇は、精神障害者たちが医師の監視の下で一艘の船に乗り込むところから始まる。この航海で、精神障害者たちが共同生活を行い、《社会》への復帰をめざす一歩とする、と云う設定である。だが、演劇が進むにつれて、航海は治療などではなく、或る企業がスポンサーとなり、精神障害者の集団をさまざまな状況下に置き、どのような行動を彼らがとるのかを人体実験して、モニタリングしているのだと云うのが判ってくる。
  • 思わず私は、最初に配られたアンケートのことを思いだして、舞台上で暴露されつつある実験と、それを重ねていた。丁寧に組み立てられたセットの甲板上で、登場人物たちが、じぶんたちがモルモットにされていたことを知り、激怒し、絶望している。
  • 云うまでもなく、あらゆるアンケートは、その設問が決定されたときから、そのアンケートを集めたいひとたちの意図(それが意識的であるか無意識的であるかは問わない)のバイアスが掛かっているものである。つまり、絶対にニュートラルなアンケートなどと云うものは決して在り得ず、しかも此処は劇場のなかである。そうであるなら、劇場の案内係たちが大きな声で、「ご協力をお願いします」と、アンケート用紙へ注意をたびたび喚起したのも、開演前に、初老の男性が立ち上がり、或る団体の幹部を名乗り、アンケートへの協力を呼びかけたのも、舞台を眺める観客席の私たちに、やがて、このタイミングで揺さぶりをかけるために周到に準備された演出であったとしても、何の不思議もない。寧ろ、劇場と云う奇妙な場所が持っている力を徹底して利用するなら、それくらいのことは起きるべきだ!……
  • ……起きなかった。
  • そして私には、『病的船団』のドラマツルギィにも脚本にも、少しもよいと思うことができなかった。
  • しかし、そうであるのに、私はこの舞台をみるうち、その大詰めで、涙をぼろぼろと零して泣いた。それは、他者と交歓することを断念し、美しく自殺することを希求する少年と、何処やらの施設で実験の材料として使われてきた悲惨な少女が、延ばした手と手を、がっちりと繋ぎあうシーンである。
  • そのテーマにも脚本にも、これっぽっちも共感することができない芝居で、なぜ私は泣いたのか、どうしてなのかと考えてみたので、そのことを書く。
  • さて、この舞台には精神障害者ばかりが登場する。
  • しかし、精神障害者たちを演じる俳優たちの身体は、如何にも、しなやかに鍛えあげられている。だからそれは鍛えられ過ぎた筋肉ダルマでもなく、ボディビルにのめり込んだ三島由紀夫が、上半身を鍛えてることに集中し過ぎて、両足がひょろひょろのままだったようなフリーキーな身体でもなく、徹底して合目的的で、健康そのものと云ったふうな身体である。それは謂わば、盛んに呑み、食い、他の肉体とぶつかり合っては盛んな嬌声を上げるだろう肉体である。
  • 俳優たちのそんな身体からは、精神障害者の肉体から受けるむくんだような感じも蒼白さの印象も、吐く息に微かに混じるツンとした化学薬品の匂いも、些かも感じられない。
  • そして、俳優たちの端整な筋肉のきしみが、彼らの口から出る言葉を悉く裏切るのだ。
  • だから私は、演劇の大詰めで泣いたのである。
  • つまり、役者たちの肉体はあからさまに、他者と交わることを大っぴらに肯定しているのに、他者とのコミュニケーションを拒む精神障害者と云う役柄がちょうど拘束衣のようになっていて、その本来の姿を抑圧されている。しかしいよいよ大詰めで、精神障害者と云う設定でがんじがらめになっていた役者の身体が、ようやくその鎖を解き放ち、すみずみまで健康な肉体と肉体となってガッシリとぶつかり合い、抱きしめあったのをみて、私は心を揺さぶられたのだ。大いに感動したのだ。盛んなカタルシスを得て、泣き濡れたわけである。
  • 真白な衣裳を纏った役者たちが破り棄てられた日記のページになり、くるりくるりと舞い踊る最後のシーンが美しかったのは、彼らの身体の美しさを覆い隠す台詞の言葉から逃れて、自由でしなやかな動きを回復したからに他ならない。
  • この演劇に於いて、その台詞や主題とは対照的に、役者たちの身体の奏でるきしみや調べは、とてもよく響いてきた。
  • もちろん、この演劇が精神障害者と云う存在を理解したり、その《社会》復帰を支える一助となるか云えば、そんなことは全くないと私は考える。
  • なぜなら、スラヴォイ・ジジェクの『ラカンはこう読め!』から卓抜な比喩を借りてくるなら(『チャンソ』の劇評のときも引用した。ネタが少なくて申し訳ない)、この舞台では「カフェイン抜きのコーヒー」や「戦死者(もちろん自軍の)を出さない戦争」のように、精神障害者から、その精神が傷を受けていることのどうしようもない危うさや痛みや厄介さをすっかり抜き取って、ただの無力な隣人に切り詰め、まったく安全な、謂わば「精神障害抜きの精神障害者」に変換してしまっているからだ。
  • さて、「特攻舞台Baku-団」は、アホを自称しているようである。
  • しかし、この『病的船団』は云うまでもなく、その終演後に併演された『爆発的紙芝居・Baku-団マスク』にしても、まったくアホではないのである。何処までも計算ずくなのである。
  • 成るほど、それは「汗かきすぎてハァハァですオレたち」を略した「A.H.O.」であり、アホの意味じゃないのかも知れないのだけれど、そんなエクスキューズしているのが、やっぱりもう、ちっともアホではない。
  • ぼくたちアホなんです!と叫びながら、そのじつ少しもアホではないと云うこの賢しらさこそが、彼らの演劇を、小さくて、いびつなものにしてしまっている原因だと思う。
  • まだバレていないと思っているのかも知れないが、アホではないことは、すっかり透けてみえてしまっている。
  • 「SPACE×DRAMA2008」の参加劇団のなかでは、たぶん最も賞を獲ることを意識している作品だと思った。たびたび上演してきたものの再演らしい。他の劇団は、たぶん無頓着に、じぶんがやりたいことをやっている。劇評のなかには書かなかったけれど、何だか新人作家が編集者から芥川賞を獲るために百枚ぐらいの中篇を書いてみましょうと云われてコリコリ書いた、みたいな舞台だった。
  • また、「キチガイなのではなくてキチガイを演じているんだ」と思うことにすると云うのは、落としどころとしては悪くないが、ラース・フォン・トリアーの『イディオッツ』や鴻上尚史の『トランス』を経てからでは、些か微温的である気もする。力作だけれど、力みすぎ。