- カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』のなかで、登場人物のひとりが云う。
- 人生について知るべきことは総て、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のなかにある。しかし、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」、と。
- これは云うまでもなく、ドストエフスキーの否定ではないし、ドストエフスキーを既に無効であるとゴミ箱に放り込むことでもない。ドストエフスキーの可能性を、さらに探ることである。それは絶望ではなく、希望だ。
- マッシミリアーノ・ダメリーニの弾くサルヴァトーレ・シャリーノの『コンプリート・ピアノ・ワークス』と題された一枚のCDを、この頃ずっと聴いている。
- 私は以前、これをMT君からシャリーノの『ローエングリン』と一緒に頂戴したとき、一聴して、そのままにしていた。シャリーノのオケ曲やオペラに比べると、ずいぶん平板な印象を受けたからだ。
- しかし、決してそうではないことは、繰り返しこのディスクを聴くことで、判るようになった。耳が集中するようになったからなのか、聴き返すことで耳が耕されたのか、それは判らないが、聴き続けるたびごと、これらの曲の表情の豊かさ、作家の果敢な実験性、響きへの研ぎ澄ましなどが見えてくると、徐々に、しかしとても、私は哀しくなってきた。ピアノと云う怖ろしく豊富な、同時に、単色の音色を紡ぎ出す楽器の故だろうか、これらの曲は、或る限界を、あからさまに示しているようだからである。それがシャリーノと云う作曲家の限界なのか、或いは現代音楽なるものの限界なのか、これも私には判らないが、シャリーノのオペラやオーケストラのために書かれた曲では見えなかったものが、はっきりと其処に顕われているようなのである。
- まさに、このディスクのなかに、嘗てピアノのために書かれてきたあらゆる楽曲が「コンプリート」されてしまっているような感じを、私は受け取ってしまったのだ。
- それが、痛切な美しさを感じさせると共に、哀しかったのだ。