もどき、その弐。

  • 原稿用紙三枚で、「おとぎ話、その後」と云うテーマをやるから、何か書いてみろと云われたので、書いてみた。
  • 「みずしなえりかちゃんのおかあさんの話」、と云うのがタイトル。なお、冒頭の点は改行の代わりである。
  • 子供を授かり、やがて母と同じように、絵本の読みきかせをするようになりました。娘と同じように、私も眠りに就く前に、絵本を読んでもらうのがとても好きだったのを思い出します。父母は、たくさんの絵本を買ってくれたので、私の小さな本棚にはお気に入りが何冊もあり、そのときの気分のままに、あれを読んで、これを読んでと、母にせがんだものでした。
  • そのうち、母の朗読してくれる声に導かれるようにして、私はぽつぽつと、文字を覚えるようになりました。母の声に合わせて、絵本のなかの文字のひとつ、ひとつを指先で押さえては、「あってる? あってる?」と、繰り返し訊ねていたものです。
  • 蒲団に入った私の横で、母は絵本を読んでくれながら、つい、うとうと眠ってしまうことがありました。そういうときは大抵、私もすぐ眠くなってしまって、目が醒めると朝なのでしたけれど、或る夜、おはなしが途中で止まったあとも、私はどうしても眠ることができず、母の指先がめくるのをやめてしまい、次のページから出てこられなくなったおはなしはいったいどうなってしまうのかと、考えたことがありました。そうして考え始めると、何だかとても恐ろしいような気持ちになり、その夜はもう、文字の列を触るのも、みるのもできなくなって、眠る母にしがみついて、ぎゅっと目をつぶっていたのを、よく覚えています。
  • それからしばらくして冬になり、駅から父母と手を繋いで、歩いて帰る途中のことでした。もうすっかり陽の落ちた暗い道端で、私は拾ったのです。「し」、です。
  • 「し」は、私に馴染み深いものでした。それは、私が最初に覚えた文字だったからです。電信柱の根元に「し」は、風に吹きつけられて、ぺったりと、力なく貼りついていました。
  • 父母の手を振り払い、私は「し」に駆け寄りました。そのときは判りませんでしたが、今から思えば明朝体のそれは、摘んで掌に載せると、石のようにひんやりとしています。やっと私は、ちょうど見えない糸に引っぱられるようにして、夜空を見上げました。
  • 出てこられずおしまいになったおはなしたちがそのなかにいるのを、私は、はっきりと見出すことができました。夜空とは、活字だったのです。夥しい数の文字のひとつひとつが、落ちないように端々で絡み合い、幾重にも折り重なって鬱蒼として、空を黒々と、少しの隙間もなく、びっしりと塗りつぶしていました。
  • 私に拾われた「し」は、鳥にでも突っ付かれて、この文字の葉叢から剥れ落ちてしまったのでしょう。ポケットにしまい、寝る前には『シンデレラ』の中に、挟んでおきました。
  • 次の朝、ページを開けてみると、よっぽど慌てたのか、「し」は窮屈な姿勢で、眠っていました。見つからないようにぴったりと重なったつもりだったのでしょうが、「れ」の上からだらりとはみ出している「し」を、私は小指の爪の先で、そっと押し戻してやりました。