• 電車の中で、「戦争の現実的な力(power)に対するに文学の力(virtue)をもって処すること」に就いて記された、山城むつみの「戦争について」を読む。これも、すごかった。

文学は「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」から始まる。いいかえれば、文学は、家に帰ることの「うしろめたさ」から生まれてくる。帰るさきは、それが家であれ郷里であれ日本であれ、それじたいは文学にとってはふるさとではない。そうではなく、そこに帰ることの「うしろめたさ」がふるさとなのである。
このパラドクシカルなズレは決定的に重要である。なぜなら、「うしろめたさ」を、回帰にともなう派生的な結果として消極的に感じるのではなく、そこから文学が生まれてくる起点として積極的にこの偏差をとらえかえすとき、そこから書かれる文学はつねに回帰に対する実質的な抵抗になりうるからである。
「家」に帰ることが、現実的には、どんなに避けがたいものである場合でも、そこから帰ることの「うしろめたさ」を起点に書くとき、そこから書かれたもの、すなわち文学は、避けがたい現実的な力に対して実質的な力を及ぼしうる。書くことそれじたいが現状に対する有効な闘争となりうるのである。

  • そのまま、「万葉集の「精神」について」を読み始める。山城は、怖ろしく肝が据わっている。彼は、「要らぬ身構え抜き」で、「余計な身構えを外して」対象に向き合い、ひたすら読んでいるからだだからだ。