『リダクテッド』をみる。しゃっくり。

  • 去年、畏兄N氏が「これは見ておいたほうがいいよ」と云っていたのだが怠惰でけっきょく公開の折、見に行かなかったブライアン・デ・パルマの『リダクテッド』をDVDでようやくみる。
  • 総て、ありあわせの映像素材(日記がわりに兵士が撮るヴィデオであり、監視カメラの粗い映像であり、チャットや動画サイトの、PC上の小さな画面など)を繋ぎ合わせて作ったようなフェイク・ドキュメンタリ。フランスの放送局が作ったふうのTVドキュメンタリが挿入されるが、其処にはイラクのサマラでの米軍の検問所の光景の上に、『バリー・リンドン』よろしくヘンデルの「サラバンド」の編曲された荘重な演奏がサウンドトラックとして重ねられるのが、如何にもおフランスっぽくて笑える。だが、最後のシーン(イラクでの日々に、すっかり神経を擦り潰された帰還兵が、酒場で彼の帰国を祝う友人たちから戦場での体験を語ることをせがまれ、苦しみを吐露して、涙を流す。このショットの文脈も、兵士の友人が撮っているヴィデオ映像)で、突然プッチーニの雄弁なメロディが流れ始める。『トスカ』の第三幕、カラヴァドッシが処刑執行のため連行されてきて、トスカに手紙を書くあたりの音楽である。もちろん、これは酒場のBGMではなく、画面に映っているひとたちには聞こえない音楽、サウンドトラックのそれである。その後、イラクでの米軍による被害者の映像が、つぎつぎに繋がれてゆくのだが、デ・パルマは最後に強烈なショットを選んで、映画を終わらせる。死体が映っているそれは成るほど、この映画全体がそうであったように、フェイクである。しかし、それは、劇映画と云うジャンルを選んだために生じる、フェイクであるからこその無力と絶望と、ドキュメンタリだろうがフィクションだろうがCGアニメだろうが、画面に何が、どう云うふうに映っているか、それだけが映画の総てであると云う、映画なるものが原則として持つ勁さのふたつが、並存しているショットだった。映画とは、手で掴み取ることはできず、徹底して表層的で、些かも奥行きがない。映画とは、薄いフィルムと、光線が作る残像の劇だからだ。だが、その表面しかないところにグッと立ち止まってみせたのが、この映画でのデ・パルマの凄さだと思った。
  • 夕方からアルバイトに。終わりごろ、突然しゃっくりが出てきて、止まらなくなる。止まったかと思って再び喋り始めようとすると、再び、フロア中に響き渡る巨きな一発が出てしまう。あちこちから失笑と爆笑が聞こえるなか、あと十分ほどだったので、何とか持ちこたえ、外に出てペットボトルの紅茶をがぶ飲みすると、ようやくおさまる。しゃくりなんて出たのは何年ぶりだろう。前はいつだったか、もう全然思いだせない。
  • 帰宅して、柚子とご飯をのらのらと食べる。とてもありがたい時間。