月組『エリザベート』をみる/『マルティン・ルター荒野をゆく』をみる

  • その後、私は独り、梅田から天満まで歩いて出て、商店街の古本屋をぶらぶら。
  • 路地の奥にいきなり現われる、最高に怪しい感じが素晴らしい「音太小屋」*1と云うスペースで、「劇団入りと出」*2の「先触れ公演」(まだ旗揚げしておらず、その告知と云うことらしい。なので、劇団ではなくて、プレ劇団だそうだ。以下は、学生演劇をみるときも、日ごろ舞台をみるときと同じ目でしかみられない私の料簡の狭さを笑いながら読んでいただければよい)『マルティン・ルター荒野をゆく』をみる。
  • 開幕から終演まで一時間ほどだったが、これはまるで演劇ではなかった。作・演出の春田千尋は、台本の執筆にはずいぶん注意を払い、丁寧に仕上げたのだと思う。なるほど、世界観やキャラクタの造形や設定は、決して悪くなかった。しかし、それはこの舞台の演劇としてのデキの良し悪しとは、まるで関係ない。何故なら演劇とは、観客の前に立っている俳優の身体を経由して作られるものだからだ。
  • これは以前、映画も演劇も演出するH監督と駄弁っていたとき、彼が云ったことだが、「演劇の台本とは設計図である。俳優と云うプロの職人が演技を組み立てるために読むものだがら、普通に読んで面白いものである必要はない」のである。
  • つまり春田は、設計図を彫琢することはできているのだが、実際の土木工事の現場を知らないのだ。云い換えれば、役者の身体への注意が、まだまったくできていない。ごく単純な指摘をするなら(演出だけでなく、そんな芝居しかしない役者だってもちろん悪いのだが)、小さな声でぼそぼそ呟くか、耳ざわりな大声を出して喚くか、たったふたつの発声しかしない人間なんていないのである。
  • しかし、自称「プレ劇団」なのだから、今冬に予定されていると云う旗揚げでは、今回の公演から得たものが、必ず付加されることだろう。それに、場数を踏むことでしか得られないものが、きっと演劇にはあるだろうから。
  • 頑張ってください、と呟くだけである。
  • 「東洋ショー」の前を通って、こっちに来たかったと思いながら、梅田までぶらぶらと戻る。U君から電話あり。難波にいるそうで、それならと待ちあわせて、電車で駄弁りながら帰宅する。